家族が壊れてしまった頃、私は自分が何でこんなに混乱して苦しんでいるのかわからなかった。そういう話を何度かさせていただいています。
混乱が不安を凌駕すると、恐れを呼び起こし、そこに根付いた苦しみの感情がいつまでたっても癒えないままでいると、やがて次の混乱が訪れ、それらの感情に拍車をかけるようになる。経済におけるインフレ/デフレのスパイラル現象と全く同じです (スパイラル:現象を構成する一つの要素が次の要素を呼び込み、それがぐるりとめぐってさらにその現象を強めてしまうこと)。要するに、悪循環は悪循環を呼び、放っておくとひたすらひどい状況に落ち込んでいく、ということです。
ともかくもそんな状況だったので、助けてくれ、と日々無言の叫びを胸の中で響かせつつ、まるで酸欠状態の魚が水面に口を出してアップアップとするようにあえぎながら、どうしたらこの苦痛から抜け出ることができるのかを知ろうと、自分が置かれている状況が何で、今の状況から抜け出るための正しい言動が何で、といった基準をひたすら求めていました。
随分長く彷徨い、いろんな知識・知恵を吸収した中には、役に立ったこともあれば立たなかったこともありました(これから立つのかもしれないけれど)。
当然と思っていたことが間違っていたり、そんなの嘘だとずっと思ってきたことが意外にも自分のためだったということもありました。
生き方を少しずつ変え、自分のかけがえのなさを自覚するようになったのは試行錯誤の結果でしたが、心理の世界から自分のこれまでの経験を踏まえて、他の苦しんでおられる方の人生に触れさせていただく機会を得るようになったのもその延長上のことです。
混乱し、問題と考えるものに日々心を押しつぶされそうになり、やりきれなさと絶望感に取り込まれている人はその時の私も含めて、何をどう考え、感じ、行動することが正しいのか、その基準を欲します。本を読み、ネットの中を探索し、専門家のところに出向き、自分が少しでも楽になるように、良くなるように、希望が持てるように、処方箋から悩みの解決方法まで求めます。
それでも、人は迷います。
ダイバーシティ(多様性)がうたわれて久しいですが、人のあり方、生き方、働き方、そういった多くの“生き様”のようなものが、より個人に即したところまで浸透している世の中で、私たちはともすれば今よりもっと自分に合った、自分が楽に生きられるような場所、方法、考え方があるのではないかと考えています。もちろん私もそう考える時があります。
そして、その土台として、正しいことは何だろう、今の自分が取り込まれている不安や苦痛を消して、もっと自分が納得いく生き方をできるような考え方、思想、基準とは、いったい何だろうと考えます。
最初に述べた通り、私はそれを家族との関係の中で、感情に圧倒されながら体中で感じました。欲しました。探しました。無形思念などと言う言葉までひねり出して、この肉体がなくなったとしたら、それがどこまで得られるだろう、なんて神秘の世界の発想まで、その当時は腹の底から真剣に考えていたものです。
それほどに、自分は救われていない、家族も救われていない、いったい何が悪かったんだ、そういった文脈で自分と家族の歴史を捉えていました。毎晩アルコールで感覚を麻痺させ、それでもジョギングと筋トレは欠かさず、空いた時間で苦しさの理由を本の知識に求めました。
今言えること、それは一気にすべてを解決する処方箋というものはなかなかないということです。
ただ、心と体の歪みが、その状況を作っていることは明確に言えます。
自分を蔑む、人を蔑む・怖がる
その裏返しに、自分を尊大に見せる
そういった自分を粗末に扱う場所に居続ける
自分ができることをやらない
弱くなる
最後の“弱くなる”は、こんなことを言われても、と思われるかもしれません。
でも、人は嘘を見聞きし続けざるを得ない状況にあると、弱くなります。弱くなるとは、自分は無力だと思い込むということです。
先に、スパイラルという言葉を経済現象を参考に説明しましたが、経済における施策はグローバル化の影響もあって必ずしも専門家の狙い通りにいかないケースが見られます。翻って、かつての私が陥っていたような過去から現在に至る様々な葛藤や拗れ、問題などは、基準となる対処方法があると私は考えています。
それは、一言でいえば、
自分に『大切なこと』をする、
自分が『大切なこと』をする、
自分を『大切なこと』にする、
ということです。
きっとこれだけでは抽象的すぎますよね。
例えば、
心と体はつながっているのだから、最低限のコンディションを整えることは大切です。
自分を受け入れ、おかしいと感じたことは素直に変えようとすることは大切です。
目先の益やメリットを求めるより、自分が大切だと思うことを実践することは大切です。
自分がかけがえのない存在、素敵な存在であると伝え続けることは大切です。
自分の根っこにある想いこそが『大切』の基準になります。
愛情、愛着、望み。
感じられない状態を感じられるようにするために、いくつものシーンの自分と出会い続け、受け入れ、一体化するとこれまでにもお話してきました。
胸を締め付けられるような想い、鼻の奥がつんとするような涙、忘れたくない記憶、そういったものを皆が持っている、私はそう考えています。もしかしたら、それは幸福や感動ではなく、切なさに起因していることだってあるかもしれません。それでもやはり、あなたがもっとあなたを『大切』にするための『大切』な想いであるはずなのです。
私が発信を続けるこのページの情報を含めて、体に入ってこないこと、理屈っぽいこと、そういったやけに“正しいこと”に振り回されないようにしてください。それはあなたにとって、“正しくないこと”かもしれないのです。
自分の感覚をもとに自分で選択し、時に間違えることもあるでしょうが、その時も自分で選択しなおし、行動と考え方を修正し、その繰り返しの中で自分の納得が見えてくるはずです。
ある意味、自分を大切にするとは、寂しさと隣り合わせになることかもしれません。
でも、その中にはあなたと『大切』な人々が行きたいと願う想いが隠れているはずです。
自分を『大切』にする基準というものがある、そしてその基準に沿って生きていくことが、かけがえのない自分を生きていくことである。
それがお伝えしたかったことです。
ー今回の表紙画像ー
『ちょっと前の出雲大社』
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