何も起こらなかった一日

日々の棚卸

期待をするから失望が生じる。

村上春樹さん著作の

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の主人公の言葉です。

私はめっきりと氏の作品は読まなくなったけど、

一行目の言葉を知ったのはこの作品でした。

でも、きっともっと昔から

世界中で言われているんでしょうね。

 

期待をするから失望が生じるのが事実なら、

何を期待することもなく、

飄々と生活しながら、

それでも自分の望むように日々を生きられれば

言うことはないのだけど、

なかなかそうもいきません。

やっぱり何かを求めてしまう。

だから、何も起こらないと

不安と取り残され感に包まれる。

何かを求めて何かをすればもっといいのだけど、

何もしないで求めることだけはすると、

もっと不安と取り残され感に包まれる。

 

平日の朝起きて、

朝食もそこそこに会社に行き、

上司の注意に凹み、

充実には程遠い仕事をして、

朝と同じルートを通って、

同じような時間に帰宅して、

遅い夕食を食べて、

風呂に入って、

寝床につく。

休日は、ウィークデイの疲労から昼まで寝て、

たまった洗濯物を洗い、

買い物をし、

誰と会うわけでもなく過ごすうち、

終わってしまう。

 

腹の底から大笑いすることもなければ、

取り立てて切迫した事件も起こらない。

朝起きてから夜寝るまでの間に、

何かしら漠然と形にならないものの

何かをしたい自分が何かをする時間くらいは

あるはずなのだけれど、

疲れているからか、

うまくいきそうもない気がするからか、

ちょっと試すだけなんて意味ない感じがするからか、

何もしないで過ごしてしまう。

ただ、曖昧なままに自分が望む未来の“何か”に向けて

歩んでいるとは到底感じられず、

悶々としている自分もいる。

 

コロナ禍の影響で仕事がなくて、

やり場のない怒りか、あきらめの感情に

包まれているかもしれない。

会社員ならリモートワークで

日がな一日自宅にいて、

それまでならくつろぎの場であったはずの家の中が

職場の緊張の雰囲気が漲って

辟易しているかもしれない。

場合によっては、街の様相や人の流れ、雰囲気の変化に、

多少の戸惑いを覚えているかも。

 

予測かデマか定かでないリーマンショック以上の景気後退の噂に

先行きの不透明感と将来への不安を感じることはあっても、

ほんのりとした楽しみとか希望を実感することを

難しく感じている人は少なくないと思います。

何事もなく、つまらない、退屈だと感じる一日を過ごして、

このままではいけない、これではまずい、

と感じている人もやっぱり少なくないと思います。

 

退屈などという感覚は個人的には

ある意味うらやましい限りなのだけど、

そういった方々が、

そこに一抹の不安、危機感のもとのようなものを

感じることも理解できるし、共感もします。

そして、何とかしなくては、と焦る気持ちもよくわかる。

わかるのだけれど、

その受け止め方自体が変化にブレーキをかけている。

その感覚のままの生活を続ける“原動力”になってしまっている。

そんな退屈の中の焦りに気づきませんか。

 

この生活、

つまり、いつ、何か悪いこと・不幸が

起こるかもしれない日々を過ごして、

その日一日、何も起こらなかったということは、

まだはっきりとしていない

自分の希望を求める時間と体の余裕が保たれたことを

意味していると受け止めることができます。

そして、既にそれを失ったときのショックと絶望が

どれほど動きを止めてしまうか

ちょっと想像すればわかると思います。

 

何も起こらなかった一日は、恩恵です。

自分という存在への、

自分を生かしてくれた人々への、

自分の望みをかなえる可能性に対しての、

ささやかな恩恵だと思うのです。

ささやかではあるけれど、

日々を過ごし続けたその集積は、

計り知れない効果を持ちます。

 

その一日、私たちは自分を生きる時間を持ち、

可能性を得ることができた。

そうやって感謝の念が湧き上がると、

退屈だと言いながら不満を抱いている暇は

きれいになくなると思います。

可能性が感じられるようになるからです。

そして、そうだ、あのこと、やれるだけは試してみよう、

となるかもしれません。

怒りや抑うつに落ち込むのは、

信じられないかもしれないけれど、

信じたくないかもしれないけれど、

自分が自分に対して選択したことです。

その選択が悪いのではありませんよ、念のため。

ただ、どんな時も無意識まで含めれば、

選択は常に自分が行っているということです。

 

不安に包まれ続けたり、

哀しみの感情に彩られて前が向けないなら、

それは今だけが問題ではなくて、

そういう見方を体に埋め込んでしまっているのだと思うのです。

 

今、生きている。

今日、1つだけでも

自分がやろうと思うことをやった。

結果は何もなく、何も起こらなかった。

そして、希望をつないだ。

次は何かが起こるかもしれない。

なぜなら、今日何もない一日を過ごしながら、

何かをしたのだから。

 

それが、何も起こらなかった一日の理解であり、

感謝であり、希望につながることだと思いませんか。

 

ー今回の表紙画像ー

『ジョギングコース横の貯水池のコサギ』(普段はもう少しいる。コロナ禍?)