問題の本質を見誤らないように

日々の棚卸

問題の本質を間違えないように。

そんなこと言われても、

という典型的な話ですよね。

 

まず最初に、経済学と心理学の話。

この二つの間に類似性を感じている人々は

双方の分野にいるようで、

私もまたその一人です。

お金という

公私にわたるモノやサービスの代替ツール。

その特性ゆえに

双方、つまり心理と経済それぞれに

相互に関連するということは、

特に専門家ではなくても

何となく理解できると思います。

 

少し昔の本ですが

『大人のための頭の使い方』(日下公人・和田秀樹共著)

という本があります。

その中で以下のことが語られています。

「…今は経済学にとって心理学が大事

というふうに変わってきています。

例えば、景気がいいの悪いのというけれども、

「不景気」なんて文学の用語であって、

GDPが3%以上あれば好景気だとかは

経済学の中では決まっていないんです。

昔だったら3%成長なんて不景気だと思われた。

今3%だとみんな飛び上がって喜ぶでしょう。

すると「これはもう心理学じゃないか、

経済学と違うのでは」ということに

なってきたわけです。」

 

ちょっぴり関連する話ですが、

日本の高度経済成長時代にサラリーマンとして

すでに働いていた方に伺ったところ、

彼の若かりし頃には、

毎年給料が10%くらい上がっていったそうです。

話を聞いた時は、さすがに眉唾に感じて、

実際そういう表情が私の顔に見えたらしく、

「ほんとなんだよ、今じゃ信じられないかも

しれないけどさ」と念を押して言われました。

確かに、日本のサラリーマンの皆さん、

よほど特別仕事ができるのでもなければ、

“毎年”“10%”もの給料アップがあるとは

普通は考えられませんよね。

しかも、当時のサラリーマン、

誤解を恐れず言えば、

労働時間は今より長かったと思うけれど、

今ほど極端な成果主義ではなかったはず。

そもそも、10%の給料アップは、

一部の仕事ができる人だけではなく、

当時の多くのサラリーマンに対して

分配されたはずですしね。

これは、いわゆる池田内閣下の

所得倍増計画のことですが、

今じゃ、仮に日本が10年連続、全ての分野で

ノーベル賞を受賞し続けるようなことがあっても、

10%の給料アップが多くのサラリーマンに分配

という状況はまず考えられません。

 

景気には様々な要素が影響するのでしょうが、

21世紀の現在の日本で、

経済成長が10%の半分の5%でもあれば、

これはもう喜ぶべきことで、

そのくらいに市場、

あるいは私たちの生活の基本的な部分が

成熟してしまっていると思います。

逆に、高度成長時代のある年に

いきなり5%という経済成長率になったとしたら

これはもうとんでもない話で、

当時の政権は即刻、

退陣に追い込まれた可能性もあるでしょう。

 

では、この高度経済成長、

本当に内閣の政策で実現したものか、

と問われれば、

一概にそうとも言えないようです。

必要条件たり得ても、

十分条件ではない。

なんか数学の話になってしまいそうなので、

別の言葉で言い換えると、

内閣の政策はやり方の一つとして

望ましくはあったけれども、

じゃ、それがあったら所得は倍増したの?

と言われれば、

それが理由とも言いきれない

ということです。

かといって、個々人が勤勉に働き続けたから

というのもまた同じで、

それがあったから所得が倍増した、

とも言い切れない。

そこには、日本が戦前に持っていた

技術や企業経営の知見、

独自のチームワーク

労働それ自体を貴ぶ文化(今よりも)、

そして

その姿勢を長く続けたこと、

さらには、運

など本当に多くの要素が重なって実現された

ことだと思います。

 

私ももちろん経験してませんが、

半世紀以上前の、

そんな頃の話なんてと言われると

返す言葉がないのですが、

どの時代のどんな経済をとっても、

根本は同じだと思います。

 

さて、ここまではお金を得る話でした。

 

翻って日々の悩みのこと。

長く続く重苦しい感覚の原因もまた

その人ごとに様々あるでしょう。

そこにはともすれば、

他者との比較によって気持ちが

浮き沈みしてしまうような捉え方を

することもあったりするでしょう。

今日は何人から批判された、

今週は上司からのお小言が少なかった、

今の自分の落ち込みは

最悪をー10としたらー5くらいだ、など、

定量的に見てしまうこともあります。

一概に悪いことではないのでしょうが、

そこに大切な視点が抜け落ちていないか

注意すると思います。

どのくらいそう感じているか、という判断は、

当人にとっての感じ方なのだから、

文句をつけたところで始まらない。

というよりむしろ、

そこをいじくりまわそうとするから

おかしくなってしまう。

感じたことは感じたことですから。

「えっ、今? 結構落ち込んでるよ、

ていうか、無茶気分悪いよ、

だいたい‐4くらいかな」

と本人が感じているのなら、

それは当人にとっての事実。

そこは景気ではありませんが、

いじることができる数字ではない。

疑うべきは、

その見方は本当に問題なのか、ということ。

つまり、そもそも焦点を当てるべきは

そこなのか、ということです。

よく、悩みを持って来られる方の話は、

実際にはそこが悩みではないことがあります。

「悩みはカモフラージュ」

「主訴は嘘」

など専門家によって言いようは異なりますが、

そういことです。

わかりやすい例としては、

引きこもる子供の相談に訪れたお母さんが、

実は冷え切った夫婦仲のことで

頭がいっぱいになっているのを、

目立つ点でかつ、自分に非を向けないように

焦点をはぐらかしてしまっていた、

というものですね。

これは並行して走っている

“今”の事象の一部に目をつぶって

光の当てやすいところを見ている例です。

そのお母さんは本当に苦しんでらっしゃる。

だから簡単に視点を変えるのが難しいことは

痛いほどわかります。

ですから、そのからくり理解することで

自分を痛めつけているという事実に

気づいてほしい。

あるいは、

過去の学習が現在のものの見方を作っている

ことをこの場でも何度も述べています。

「お金がない」が口癖の家で育った子供は、

大人になってからも常に、

お金がない前提で行動します。

家も車も別に当人が必要なければ

購入する必要はないのだけど、

お金がない、

あるいは豊かさが続くはずがない、

という刷り込みが人生に反映されていると、

自然にそういうところに手が出ることも

なくなります。

同じ理由で、

お金がかかるために子供を学校にやらなかったり、

食費を安くて栄養の偏ったものにしたり、

というように、

ある種の前提があたかもあらゆる場面で

一生そうであるかのように考え、

行動するようになります。

当人は至極まじめに考えているから、

問題に気づくこともない。

そして、何かがおかしい、自分は騙されている、

原因はどこだ、と周囲にアンテナを向けます。

 

度々申し上げているように、

まず焦点を自分に戻すことです。

もちろん、それで全てが即ハッピーとなるとは

限りません。

ただ、どんな問題で苦しんでいるにせよ、

最低限やるべきことはあります。

 

私たちが、現在や過去に抱える問題を乗り越え、

かけがえのない自分を生きていくために、

先の高度経済成長時の条件を引用するなら、

 

政策:どうやるのか

(所得倍増計画)

ゴール:いつまでにどうなりたいのか

(10年で所得を倍にする)

現在地:自分はどういう状態なのか

(生活状況・リソース)

理念:どんな思想に基づくか

(労働それ自体を貴ぶ)

などが考えられるでしょう。

 

でも、いきなりこんなことを言われても

とっかかりの段階では所詮How toであり、

その根っこにあるおおもとの条件を

理解しないことには

やったところで途中で投げ出してしまいかねない。

 

その条件というか

様々な問題に共通する取り組みとは、つまり

問題の本質は自分を見失っていることであり、

それを認めたくない、気づかないゆえに、

光の当たった場所で探し物をしていて、

体力ばかり消耗する

(問題をこじらせてしまう)

という現状認識であり、

したがって

見失った自分

遠ざけていた自分

無視していた自分

と出会い、

出会った自分を受け入れる

そうやって統合した自分が

何を望んでいるか

その想いを知ることと

その想いを実現することに焦点を当てる

ということです。

そして、忘れられがちですが、

繰り返し継続し続けること

だということです。

 

その焦点の当て方は正しいのか、について

常に自問を繰り返す癖をつけるまで

あきらめずに行っていきましょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所の釣り場』