道端の雑草の記憶

日々の棚卸

町に暮らしているせいで

そう感じるわけでもないのだろうけれど、

アスファルトや

コンクリートブロックの隙間に

小さな草花が咲いていると、

何となく目が行きます。

ほぼ全ての人は素通りするし、

目についた私も別に

それを見つけたからといって、

人ごみの中で突然しゃがみ込んで

じっと見入ったりはしません。

でも、

世界中、

そういうところは無数にあって、

きっと日本国内のそんな場所の数だけでも

世界の全人口より多いと思います。

あまりにあちこちにありすぎて、

しかも、

特にめずらしかったり

見栄えがいいとも

感じるわけじゃないので、

普通は素通りするものでしょう。

 

私が車を置いている駐車場は、

不動産の管理がしっかりしているせいか、

とてもきれいに掃除が行き届いています。

およそ、私の部屋とは正反対です…。

少し前のことですが、

買い物に行くために部屋を出て、

駐車場に降りて行き、

車のドアを開けようとしたところで、

視界の片隅に

ふと違和感を覚えて目をやると、

駐車場の隅を構成するタイル張りの隙間から

一輪の小さな花が

咲いているのが目に入りました。

無味乾燥なコンクリートで覆われた場所の

藤色の艶やかな一滴という感じでしょうか。

手の中指くらいの高さの

ほんとに小さな花というか雑草でした。

誰がいたわけでもないけれど、

その時は「あれま、花が咲いている」

というだけでそのまま車に乗り込み

買い物に出かけ、

戻ってきた後もそのまま素通りして

部屋に戻っていきました。

素通りしたのですが、

何かが脳裏をよぎった気がしました。

 

夜、また用事があって車を出しました。

用事から戻ってきて、

常夜灯が灯る駐車場の片隅に咲く花に

目が行ったときに思い出しました。

社会人になりたての頃、

こんな場所、つまり、

アスファルトやコンクリートの隙間に

生えている草花に見入っていた、

そんな時期があったことです。

 

前世紀末、

当時住んでいた町の駅から

自分の住む部屋までの往復に

空き家が並ぶ裏路地があって、

コンクリート塀と

玄関へ通じるブロックタイルの間に

数滴の緑を固めたような小さな雑草が

生えている場所がありました。

帰り道、

そこに咲く小指の詰めよりも小さな花に

見入ってしまい、

小一時間ほどもそんな場所に腰を下ろして

本を読んだり

煙草をふかしながら

ぼんやりと座っていました。

当時はスマホはなかったし、

そうやって人通りの少ないその場所で

日暮れの幾ばくかの時間を

ときどき費やしていたものです。

本当に、何をするわけでもなく

ただひたすらそこに座り込んでいた

普段着(勤め先は普段着でよかった)の

若造の姿に、

家路を急ぐサラリーマンや主婦などの

通行人が奇異な視線を向けたけれど、

そんなことも気になりませんでした。

正確に言えば、

気にならなくはなかったけれど、

大通りで同じことをすることに比べれば

なんということもなかったということです。

そういう視線に反応する気力もないほど

心のある部分が弱り果てていたのでしょう。

自分が座るすぐ脇に、

まさにこの世の誰にとっても

どうでもいいような草が

彼らにとって悪条件であるはずの

人工的な空間に存在して、

時に小さな花を付けて横に生きている、

そんな状況に

奇妙な親近感と落ち着きを覚えていました。

原家族がおかしくなって、

そのことにダメージを受けながら、

何もすることができずに

ただいじけて腹を立てて、

感傷に浸っていた、

そんな自分にとって、

そこは、当時、

居場所と感じていた数少ない場所でした。

 

これは久しく忘れていた光景です。

傍から見ればその光景は、

そして当時の私は、

暗くて、

孤独で、

ある意味危なくて、

独りよがりで、

人によっては近寄りたくない

若造だったと思います。

不可抗力でそうなったというわけではなく、

当時の自分の世界観と

自分自身の受け止め方が、

自分をそういう方向へもっていっていた

わけだから、

今、仮に当時のそんな自分のことに

腹を立てたり、

羞恥を覚えたりしたところで、

言い訳はもちろんできません。

当時の友人たちも、

当時の私がそんなだったことは知らないし、

知ったらあきれるくらいはしたでしょうね。

それが、

それこそが、

私の世の中とのつながり方だと

感じていました。

 

そして、

…そして、

このことを思い出した時、

私は、

当時の私、

今よりずっと若くて

一人だった私のことがとても好きになりました。

私の感性、

私の思い込み、

私の独りよがり

私が大切にしていた存在の歪み、

悲壮感、

被害者意識、

そういった諸々を抱えて昇華しきれずに

生きづらさの中にもがいていた私自身のことを

あまりに愛おしく感じてしまいました。

それは今の、

ちょっとばかり小ぎれいな部屋に暮らし、

(先ほども言ったように散らかってますが)

車を乗り回し、

こうやって日々情報を発信する私とは

遥かにかけ離れてはいたけれど、

今のこの自分につながる

私にとってのとても大切な存在なのです。

今でもきっと、

過去の私のそういう面を知れば、

快く感じない人はいるでしょう。

でも、

私が私である以上、

そんな一時期を過ごした当時の私は、

決して自分の一部として外すことのできない

存在で、

それが今を取り巻く世界とのつながり方の

根っこの一部にあります。

もしまた、

この部分の私を見失ったり遠ざけたりすれば

自分にとって何が大切で必要かという

私自身の基準と

かけがえのない自分という存在の一部をも

見失ってしまい、

それを思い出させようと

闇の世界が現れるはずです。

 

ときどきここでお話しする

過去の私の物語は、

話して受けるような、

そんな類のものでないことは

読んでいただいた通りです。

今回の話などはそれこそ、

格好悪かったり、

どんくさかったり、

というだけならともかく、

湿っぽくて嫌だ

とか、

暗くて鬱陶しい

など、

当時の私自身が、

自分に対して素直に認められないまま

そう感じていた感情でもありました。

リア充の方から見ればきっと、

「暇人だよ」

の一言で片づけられてしまうでしょうね。

 

今わかることは、

そう感じていた自分が

どれだけ自分自身を世の中の基準で

批評していたかということです。

誰かに暴力をふるったり、

罵声を浴びせたり、

何か犯罪でも犯したのならともかく、

そうやって元気が出ないまま

自分なりに取った行動に対して、

そんな行動をした自分を忌み嫌うことなく、

一緒に寄り添いながら、

自分がなぜそうしているのかを

自分自身に問いかけ続けることで、

自分のそれまでの歩みと

今の自分にとっての

最も大切な解が得られるのです。

そのことを体得するまでに

ちょっとばかり時間を要してしまいました。

 

あの頃は、世の中と自分との間に

うまく境界を設けることができないまま

自分を受け止めていたな、と思います。

生きることが苦しかったはずです。

愛らしい雑草も

コンクリートも

人の波も、

みなどこかでつながっています。

そう言う意味では、

必要以上に自分と他者を分ける必要は

ないのだけど、

自分が自分なりの輪郭を、

世の中との折り合いの中で身に着けることも

覚えておきたいですね。

 

ー今回の表紙画像ー

『雑草』

こんな隙間で生きいけるんだからたいしたもんだ。