自己の境界

日々の棚卸

自分が問題を抱えていた頃、

というより問題があると思い込んでいた頃、

自分とは何者か、

自分はどうやって生きていけばいいのか、

果てはレーゾンデートル(存在理由)、

そんなことをよく考えていました。

肉親の自死よりも原家族が壊れたときの方が

深刻になっていたように思います。

 

こう書くとまるで

不幸があったから考えるようになった、

と読めますが、実際その通りで、

家族内に身を置いて、

日々誰か彼かが起こす衝突ごとに

心身を削って対処していた頃は、

幸か不幸か、そんなこと、つまり

自分とは何者か、存在理由とは、

などと考える暇も余裕もないまま

世の中を単純にとらえていました。

それ自体は、今にして思えば

決して悪い影響ばかりではなかったと

真面目に感じているのですが、

世の中を見渡せば、

遠い昔から今に至るまで、

自分の存在意義とか価値について

偉人から名もなき一人の人間まで

多くの人が悩んできていたようです。

それほどに人は昔から

人という存在の不確かさ、

曖昧さの部分に不安を覚え、

確証することに腐心し、

そこに安心して生きることの意味を

見出そうとしていたのかもしれません。

ブログで時々登場させていただいている

養老孟司先生は、

希望とは自分が変わること、

と題して本を出されていて、

まさにその通りだと思いますが、

同時に

自分探しに対して否定的な立場を

とっておられます。

自分探しをして、

自分探しが不要とか意味がないと

思ったり悟ったりすること

(が正しいかはわかりません)もまた、

自分探しが大切だと言えなくもないのでは

と私などは思ったりもするのですが、

ともかくも、

そうまでして探さなければいけない

自分とは何なのか知りたくはなります。

 

子供の頃はもちろん、

大人になってから、死の直前まで、

私たちは間違いなく、

他者・世の中の影響を受けて

日々を過ごします。

そうやって周囲のあらゆる物事から

影響を受け続けながら生きる自分とは

いったい何を意味するのか。

 

一つ参考になる面白い例を挙げます。

米国の文化人類学者・精神科医であった

グレゴリーベイトソンは、

自己の範囲というものを想定するときに、

杖をついて歩く盲目の人を例に、

自己の境界を区切ることの

無意味さについて述べています。

この人、

つまり杖をついて歩く盲目の人にとって、

自己とはどこまでを指すのか。

杖を握る手までか、

杖の先までか、

杖をつく地面の一部まで含むのか。

次の行動を決めるためには、

周囲がどうであり(現在地を知る)、

自分はどうであり(対比)、

その知覚を比較して、

決定するというプロセスをたどるのだから、

自己とは、

その全身をもって状況を知覚する

“全て”を意味するということになります。

そうすると、

自己とは

それまで考えられてきた、

肉体とそこに宿る精神によって

区切ってしまうこと自体に

疑問が湧いてきてしまいます。

 

私という存在の主体である私にとって、

体と心は最も大切です。

一方で、

周囲を気にする私たちの文化には、

そこに自分とは明確に切り離すことができない

自己があることを暗黙の内に

示唆しています。

関西弁の「自分」という言葉が

話す相手を指示していることなど

その例ではないかと思います。

つまり、

ある時点・瞬間における自己とは、

単純に自分の体と思考と感情のみを

意味するのではなく、

話す相手だったり、

周囲にいた人だったり、

いつも一緒にいてくれる誰かだったり、

身を置く環境だったり、

そんなことまでが自己となるわけです。

そうすると、

よく言われる、

『世界は自分の内面を映し出す鏡』とか

ゆずの歌ではないけれど、

『人は皆、鏡だから』というのは

単に比喩とか、

感覚的な表現などではなく、

いわゆる学術的にもそう解釈しうる

ことになります。

それで考えてみたのですが、

実は、この意味、

時間軸方向にも有効ではないかなと

思いました。

いえ、もちろん、

過去の自分が現在の自分とも重なるのは

その通りなのですが、

過去に一緒にいた誰かや

身を置いた環境もまた

自己との間に明確に境界線を引けない、

そう言えるのではないでしょうか。

人については、

原風景の話を思い出していただければ、

お分かりになると思います。↓

https://nakatanihidetaka.com/yourlandscape/

現在の関係としての鏡たる誰かは

時間が経つにつれて心の血肉になって

私という自己を形成する内面世界に

息づくようになる、

そしてその姿や色や匂いや空気は

徐々に自己の中に遠のいていくけれど、

そこには既に

今自分が存在する世界の見方を共有する

という意味で

自分の一部になって影響を与えている。

だとすれば、

これまで私たちが過去の終わった出来事として

捉えてきた他者もまた、

見事に自己の一部たり得るわけです。

そういう意味では、

人は鏡というのみならず、

自己の延長としての側面もまた持っている

ということになります。

 

環境については、

ある意味とても考えやすいでしょう。

公害や自然災害などはその最たる例です。

化学物質で汚染された川や海や土は、

やがてそこで育まれた生物を口にする

私たちの体に影響を与えます。

1956年に公式に確認されて以来、

未だ完全に解決となっていない水俣病は

工場が流したメチル水銀を取り込んだ魚を

地元民が口にして発生した病です。

イタイイタイ病はカドミウムが原因の病で

こちらは裁判は終了しましたが、

今も汚染調査が行われています。

ここまで大きな話ではなくても、

自然に接しおられる方なら、

微細な変化が人の生み出した人工物によって

生じていることを肌で感じ取られている

と思います。

私など、釣りをやるせいか、

釣れる場所で魚の味が変わることに

そのことをひしひしと感じます。

 

要するに、

それほどに環境は、自分と切り離して

考えることができないことは、

別に何かの啓蒙本を読んだりせずとも

理解できることと思います。

 

不思議ですね。

なぜなら、こう考えてくると、私たちは

いわゆる自分として感じている

独立した存在であるとともに、

ちょうど私たちにとっての細胞のように

壮大な自然というシステムの一部として

機能する存在であることが

科学論理的に示されるわけですから。

普段、私たちは自分というものを

コインを入れてボタンを押したら

ペットボトルが出てくる自販機のように、

自らの思考に反応して動き、

それに対する答えがすぐに帰ってくる、

そんな部分だけを取り出して

自分と認識してしまっていますが

実情はそれとは大きくかけ離れている

ということになります。

多分に感覚的ではありますが、

 

先の杖を突いて歩く盲目の人の話に戻ると、

先に述べたように、

自己というものの境界を区切る無意味さについて

ベイトソンは次のように言っています。

ちょっと長くて面倒臭いですが…

「その人の自己は、どこから始まるのか。

杖の先か、柄と皮膚の境か、

どこかその中間か。

こんな問いは、土台ナンセンスである。

この杖は、

差異が変換されながら伝わっていく

経路の一部に過ぎない。

それを横切る境界線は、盲人の動きを

決定するシステム全体の

サーキット(回路のことです)を

切断してしまうのだ」

(『精神の生態学』新思索社、改訂第2班

砂糖良明訳p432)

 

ここまで見てきて思うのは、

何でも自分の好き勝手にする自分が

自分とは何者か、に対する答えでは

ありえない、ということです。

結局のところ、

自己というものが

これまで漠然と想像していた以上に

そして道徳的とか宗教的とか言う枠を超えて

もっと現実的に

何らかの形で

他者や環境とつながっているということは

自分のためになること、

自分が気持ちよくなること

自分が喜ぶこと、

そして何より自分を大切にすることが

そのまま他者や環境に対しても同じである

そんな生き方が求められているのだと

思います。

 

これは、利他、そのものですね。

余談ですが、利他、は決して利己を

放棄していません。

利己=利他

それが必要なんです。

 

いずれにしても、

自分を大切にするためには、

自分が満たされるためには、

かけがえのない自分を生きていくためには、

自分以外の誰かのために

自分以外の何かのために

自分がやりたいこと、

自分ができること、

自分が得意なこと、

それを見つけて実践していくこと、

それこそが、

自分とは何か、

存在理由とは、

そういった問いに対する答えなのではないか

そう思えてなりません。

前回、超お堅い資本主義の話の中で

私たちがそうやって生きていくための

基本的なインフラは整っている、

そう述べました。

もっと言うなら、

そういった生き方ができるように

先人たちがこういったシステムを

幾度の衝突と、

時には悲しい出来事を繰り返しながら

作り上げてきた

そう考えてよいと思います。

個人単位でみれば、

決してハッピーエンドばかりではありません。

私の父や母のように、

とても哀しい結末を迎えたり、

時にはもっと哀しい生い立ちを送ったり、

今も送っている方を知っています。

ですが、

自由と平等と責任と個性とを

誰もが実践していけるような

試みの繰り返しの中で

いくつもの知が蓄積され、

弱者には救済が施される仕組みができ

そんな中で私たちは

本来既につながっていたにもかかわらず

離断された状態を正常と勘違いして

その孤独感や疎外感を“演出”して

不安になっていたりします。

一歩引いて自分を見てみると、

なんだかおかしさがこみ上げてきますね。

私だけかな。

 

自分探しはおいておくとしても、

自分とは何か、その存在理由を考えることは

決して無駄ではないし、

今回は

私なりの結論を述べさせていただきました。

いつも、受け入れ、受け入れと

小うるさく書いているので、

今回はその言葉は出しませんでしたが、

結論を実践していく上でも欠かせない

日々の取り組みごとです。

それを踏まえた上で、

今一度、

自分とは何かについて

考えてみてください。

過去も現在も他者も環境も

自分を取り巻く時空間全ての存在が

自己の一部だとするなら、

ほんとはそれほど哀しんだり苦しんだりする

必要はないような気もします。

 

もっともここまで話が早大になってくると

なかなかイメージがついていかないですけどね。

これも私だけかな。

 

ー今回の表紙画像ー

『アユ釣りが始まっている』

アユ釣り解禁。

梅雨空の下で。

みんな好きだな。