私の親の世代は、
男性にとって苦手だったことですが、
今は男女全体について言えることの一つに、
寂しさを感じる余裕がなくなってきたことが
あると思います。
仕事や、
子育てや、
家事や、
人間関係に追われて、
なぜお前は、
なぜこの子は、
なぜこの仕事は、
なぜこいつらは
こうなんだ!
なぜ時間が、
なぜお金が、
なぜ休みが、
こんなに足りないんだ、
と、
なぜ、なぜ、なぜ、の連続に
怒り、苛立ち、放棄、無視の感情が
湧いてきても、
そこに寂しさを感じるということは
そうそうないかもしれません。
もし、そうであるならば、
つまり、
それは寂しさとは別の話だ、
寂しさとは関係ない、
と受け止めた方がおられるなら、
寂しさの意味を
本質的に取り違えていると思います。
いえ、そんな偉そうなことを言えるほど、
私もまた、
達観してるわけでは、もちろんありません。
ですが、少なくとも
大切なことが抜け落ちているように
思うのです。
それは、私という存在の受け止め方です。
人は一人では生きられない、と
よく言われます。
でも、
ロビンソンクルーソーではありませんが、
実際にはそんなことはなくて
個人が命を長らえるだけなら、
どうにだって生きようはあるわけで
実際、遭難したり、戦争で孤立したりした
過去の手記には
そういった話が残っていたりします。
ただ、少なくともたいていの人は、
日々の人間関係の軋轢に煩悶しながら、
そして時に孤独な生活を送りながら、
ある日どこかで、
他者がいる生活や、
人がいることの必要性、大切さを感じたり、
それを求めている自分に気づきます。
すると、
どこかでもう一度、自分を振り返り、
人の中に入っていくための
もっとも負荷の少ない方策を
自分自身と相談しながら
進めていこうと模索するようになります。
私には人が必要なのだ、と。
そうなってくるとしめたもので、
仕事だとか、
家事だとか、
ママ友だとか、
そういった次元で発生する問題に
いちいちフォーカスしては感情を害する
といったことが無駄に思えるようになって、
例え、ある種の独りよがりであったとしても
原初の感覚を満たしてくれない世の中に
目くじらを立てるという、
勝手な言い分に覆われた状態から、
物事の正しさとか、
是非といった理屈とは異なる世界へ
意識が変わっていくことを
手伝ってくれます。
寂しさは、
そうやって、
自分には人が必要であることを
心の奥底で感じている自分と、
うまくつながることができずに
強がったり、
怒ったり、
孤立したり、
無気力になったりしている
現実との間に生じる
感覚的なギャップとして感じるものです。
そんな寂しさなんて、たいしたことじゃない
と言われる方もおられるかもしれません。
“その程度”の寂しさに戸惑ったり、
いちいち反応してたら
世の中回っていかないよ、と。
“その程度”であるのかはともかく、
そんな重いことではないのなら、
もっと素直に
人とつながりたい自分をしっかり受け止め、
率先して実践していけば、
未解決の問題が片付いたり、
実は安心できる自分にたどり着いたり
するはずなのに、
“その程度”と言われる人ほど、
どうも実際の行動が伴わないようです。
それはつまり、先に挙げたように
原初の感覚が満たされないと
感じるから、
つまり、
そのつながりが成就できなかった場合の
ショックに怯える自分を
無意識が想像してしまうから、
というのが本音ではないでしょうか。
こういった感覚は、
真正面から受け止めて、
それがうまくいかないとわかった時、
凄まじく厳しい世界になってしまいます。
自分が見捨てられ、
軽々しく扱われてしまったかのような
感覚になることさえあります。
だから、私たちはつい、
そのショックから逃れる方策として、
代用の感覚を求めてしまう。
寂しい、
あるいは、
哀しい、
そういった感覚の代用を求めてしまう。
それが、
怒りだったり、
恨みだったり、
正当化だったりします。
怒りが外に向かえば、
周囲と衝突して問題を起こし、
内に向かえば
鬱や依存症になることは
今ではよく知られています(いるはずです)。
代用は、あくまで代用であって、
一時的には非難のために
選択することがあるにしても、
そのまま継続して使い続けてしまうことで
それを自分がもたらしていることにも
気づかないまま、
本来の自分からかけ離れた生活が
常態化してしまいます。
さらに放置が進めば、
やがて、当座の生活のみならず、
人生までをもおかしな方向へ
導いてしまうことにもつながります。
できることなら、
率直に、真正面から、
しっかり寂しさを感じましょう。
時に、
怒りや無気力の感情に襲われることが
あったとしても、
何とかその状態に気づき、
自分を慰め、
泣きたいならきちんと
涙を流せるといい。
寂しさを感じること、
その負荷に対する涙を流すこと、
それは、
自らの中にこもりがちなこだわり、
自分のことは自分が一番よくわかっている
という驕り、
俺は・私はこんなに苦労したんだからという
被害者意識、
を洗い流してくれます。
こだわり、驕り、被害者意識、
それらが例えどんな理由から生じたにせよ、
いずれも、
自分の想いを曇らせ、
自分の生活を蝕み、
自分の未来を失わせてしまう。
本当は、寂しい。
それは誰かのせいではなく、
自分のせいでもない。
人が生きていくために感じ続ける
生の証です。
この感覚といかに付き合っていくか、
こそが
私たちが私たちとして、
納得のいく人生を送ることができるかどうか
自分をかけがえのない存在として
つきあうことができるかどうか、
ひいては、
自分の大切な存在や世界に対して
愛情を注ぎ続けられるかどうか、
を決めるのです。
繰り返します。
大切な、本当にどうしようもなく大切な、
自分が自分の人生を
納得して生きるための
これは証なのです。
それを、しっかり受け止め、感じ、解放する。
それが「次の」ステップへの原動力になります。
戦う相手を間違えないようにしましょう。
敵があるとするならば、それは常に
己の中にあるものです。
ー今回の表紙画像ー
『猫じゃらし(エノコログサ) 朝の散歩より』
散歩がてら、道のわきに生えていたので、つい引っこ抜いてしまった。
これを『猫じゃらし』と呼んでいるなんて…知らなかった。
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