「エンターテインメントみたいなもんだな」
心理カウンセリングの勉強をしていた頃、
某精神科医から聞いた言葉です。
彼自身がミーティングと称して、
院内で患者を、
院外で一般の方をクライアントとして、
ワークショップを開催しており、
先の言葉を聞いたのはそういった
ワークショップの一つだったと思います。
もともと日本では
偏見からか、なかなか根付かなかった
精神医療や心理カウンセリングを
その効用ともども、
世に広めようと尽力しており、
私がこの世界のことを知る前から、
講義をしたり、
講演会を開いたり、
ワークショップを行ったり、
していたそうです。
自己啓発や心理のワークショップなど、
あちこちで催される
セミナーやオープンカウンセリングは、
今はそれこそピンからキリまであって、
その中で人が集まるものははやり、
そうでないものは静かに消えていきます。
開催される催しには、
著名な方ががやっているものもあったり、
公開カウンセリングが含まれていたり、
カウンセラーとは関係ない人が
自己啓発と称して人を集めて騒いでいたり、
私と同じように無名の方がひっそりと
頼ってくる数人のクライアントさんに向けて
こじんまりと行っているものもあったりで、
それらを十把一絡げにして
“エンターテインメント”と
言い切ってしまうことに、
当時は大きな抵抗を感じたものです。
エンターテインメントという言葉から受ける
イメージは、
ミュージシャンのコンサートや
映画やテーマパークみたいなもので、
自分がそういった場に通い続けて
得ようとしている何かとは相いれない、
少なくとも一線を画すことであるように
感じたからです。
彼が広め定着させようとした狙いとは、
ずれている部分もあるでしょうが、
先ほども述べた通り、
今はセミナーと称する催しが
あちこちで開催され、
そういった場に、
多くの人が集まる時代になっています。
セミナーの種類も、
心理カウンセリングに関するものもあれば、
自己啓発、お金、転職、起業、志など、
本当に様々なものがあります。
これを読まれる方の中にも、
そんなセミナーに足を運んだ方も
ずいぶんいらっしゃると思います。
私は、
そういったすべてに参加したわけでは
もちろんありませんが、
参加者から聞いたり、
漏れ伝わる話も総合して感じたことは、
そういった場に共通している要素として、
自分の心に問いかけるステップがある、
ということです。
。
行ってみて、
感動したり、
自分も何とかなるぞと感じたり、
あるいは、
なんか胡散臭い、
つまらない、
間違ってる、
気分悪い、
となったり、
感じ方も多種多様。
馬が合うあわないもあるのでしょうね。
そうこうするうちに、
あっちのセミナー、
こっちの講演、
このカウンセラー、
あのセラピストと
転々とする方もまたそれなりに
おられます。
それを難民と称する
プロフェッショナルもまたおられる。
通うセミナーが共通の分野であれば、
余程突飛なものでもない限り、
言葉や見せ方の表現に差はあるものの
それぞれが伝えようとすることに
共通する部分は出てくるわけで、
真摯に学ぼうとして、
結果として転々とされる方がいたとしても
不思議ではありません。
時には、
コンサートに出かけるように、
特定の方が催す講演やセミナーがあると、
いそいそと出かけていく、
そんな方々も当然おられるようです。
楽しいのでしょうね。
それが、自分の心を扱っている
カウンセラーとかアドバイザーだったり、
懇意にしている人だったりの催しであれば、
時にはウキウキしたり、
時にはじんわりしたり、
時には落ち着いた気になったり
といったように、
原風景に浸れるような感じがすることも
あるのかもしれません。
中には、カウンセラー養成などの講座で
そのような雰囲気をとって
教える方もいるようです。
一方で、それを本末転倒、
転々となんてしてないで、
今言っていることをしっかり感じてみろ、
と批判するカウンセラーもいらっしゃる。
私は常に、
自灯明、
つまり自分の感覚を大切にすることを
進言しています。
え?
記憶にない?
ではこの場でそう進言します。
ただ、自分の内面と向き合い、
様々な自分と出会い、
受け入れ、
一体性を獲得するということは
自灯明を実践することと近しいと思います。
ともかく、
自分を基準に、
自分が目指す幸せを朧ながらも描いてみて、
それにマッチする、
多少なりとも
自分が感覚的に見合うものを求めて、
新しいセミナーを見つけて通うのか、
自らが主宰する知識を得て開催するのか、
いろんな方法があると思います。
最初は当然通う方ですね。
転々とすることを標題で
行脚(あんぎゃ)
と称しました。
行脚とはもともと、
お坊さんが諸国を巡って修行すること
を意味していたそうですが、
そこから派生して
徒歩で旅をするという意味に
使われるようになったそうです。
辞書では、史跡行脚という例が
出ていました。
初めてこの言葉を知ったのは
記憶もなくなるような遠い昔、
釣りキチ三平という漫画の中でした。
第4巻、三日月湖の巨鯉編です。。。
その中に登場する風来坊釣り師、
鮎川魚紳さんという
大金持ちの御曹司で、
ハンサムなさすらいの弁護士で、
大の釣りキチで、
という設定のキャラクターが着ている
服の背中に書いてあった
『日本全国釣り行脚』
という文字の読み方がわからなくて
辞書をひくと、あんぎゃ、とあった。
意味は先に述べた通り。
釣り行脚なんて…。
そう思われる方もいるかもしれませんね。
釣りキチとはよく言ったもので、
私も釣りをやるので、
全国を釣りをして回りたくなる気持ちは
結構共感できてしまいます。
釣趣という言葉のように、
その地方、
その場所、
その風景、
狙う魚
仕掛け、
エサなど
そういった一連のまとまった味わいが
訪れた釣り場ごとにあるもので、
そういったシーンを追い求めて
各地を“行脚”する釣り人の感性というか
心情は、
繰り返しになりますが、
とても共感してしまうのです。
余談ですが、魚紳さんは片目が見えない
という設定です。
子供の頃、お父さんと夜釣りに行って
ケガをしてしまったことが原因です。
ショックから
お父さんは釣りをやめてしまいました。
大人になると、魚紳さんは家を離れました。
憎悪の感情ではなく、
毎日自分の傷ついた顔を見ると、
両親が昔を思い出して悲しむだろうから、
という理由からです。
物語だからのストーリーというのもある
のかもしれません。
そういう理由で家を離れる必要はないと
思うのですが、
きっと彼なりに何かを求めたというのも
あるのでしょう。
ええ、大変申し訳ありません。
話が非常に大きくそれました。
セミナー行脚、の話に戻ります。
そういうわけで?
私は、
そうやってセミナーやカウンセリングを
転々とする方を否定しません。
むしろ、大切なことだとさえ思います。
そんな中で、行脚自体の無意味さに
たどり着くかもしれないし、
それとは逆に、
自分の中に素直に入ってくる
一生ものの言葉や価値観、
モノの見方、自分の受け止め方を
見つけるかもしれない。
心理の専門家が気を付けるべきことは、
「だからそう言ったろ」
という言葉を発してしまうことです。
こんなあからさまに言うことはなくても、
態度でそう示す人もいます。
目的地まで向かう方法に
様々な乗り物があるように、
クライアントさんが回復する過程で、
選択する言葉、
雰囲気、
論理、
言い回しなど多くのことが関係します。
本来はそれらすべてを体得して、
クライアントごとにマッチした表現なりで
接することができれば文句ないのですが、
セラピストと言えど所詮は人間、
限界があります。
ただし、カウンセラーがどうであれ、
恢復に向けて行動は大切です。
行動なくして
変化も
自分が望む感性の体得もありません。
それをしっかり認識したうえで、
自分を信じて、
転々と行脚し、
ある時点で、
一度立ち止まって、
学んだこと、
共感したことを行動で試してみる、
運よく、
自分が合いそうな専門家を見つけたら
相手を信じて学ぶ、
またそれに沿って行動してみる。
そういったことをくじけることなく
やってみてください。
ー今回の表紙画像ー
『梅雨の晴れ間のお月様』
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