反省はしても、後悔はしちゃいかん。
時々聞く言葉です。
私について言えば、
ある時から、
後悔をしたことがありません。
性格に言えば、
後悔ではなくなったということです。
えっ、と思われるかもしれません。
選択を間違ったことがない、
ということではないんです。
もしかしたら、あっちの選択の方が
良い結果を得られたかもしれないな、
そういことは、
“傍から見れば”
あったと思います。
にもかかわらず、後悔をしたことがない。
反省はほぼ毎日、
どころか毎時間ほどに
せざるをえなかったりしますけどね。。。
ともかくも、
自分を受け入れることが進むほどに、
後悔はしようがない、
という気持ちになってきました。
後悔するのはどんなときでしょうか。
宝くじを引くとき?
まあ、確かに
選ばなかった方が大当たりだったら、
後悔するのかもしれませんね。
私は宝くじを買いませんが、
その立場になれば短期的には
そう感じるかもしれません。
意見が衝突して、
大切な友達や恋人に、
つい、
心無い言葉をぶつけてしまった?
お父さんやお母さんに
ひどい言葉をぶつけてしまった?
そうですね。
もしかしたら、
そんなことをしないで済むなら
しなければよかったかもしれませんね。
あまりに苦しくて、
会社を辞めてしまったけど、
転職先が見つからない?
うーん。
転職先を見つけるなり、
起業するなり、
しばらく休むと決めるなり、
してからだとよかったかもしれないですね。
いや、もっともっと、
とても人前では話せないような、
そんな後悔の念を、
心の奥に抱えてしまっている
そんな方もおられるかもしれません。
ここは、やってしまったことを
法で裁く場ではありません。
法に触れるような行為をしてしまい、
そのことに苦しんでいる方も
おられるかもしれません。
あるいは、
法に触れる云々ではなく、
人として、
男として、女として、
大人として、
不文律を犯してしまったり、
人を売ってしまったり、
そのことにしゃあしゃあと言い訳したり、
そんなことをしながら、
日々を悶々として生きている、
それをして、世の中では
後悔と呼ぶと思います。
苦しいですよね。
後悔だから、
取り返しがつかないことが多くて、
それがますます
自分の感情に巣くってしまい、
日常の活動にも影響を及ぼしてしまう。
相手の男の言いなりに
子供を堕ろしてしまった女性、
人を暴力で
再起不能に追い込んでしまった男性、
ほんとうに
なぜそんなことをしてしまったんだ、
と思うのであれば、
悔やんでも悔やみ切れません。
後悔の念そのものです。
『自己治療』の時に述べましたが、↓
https://nakatanihidetaka.com/self-treatment/
そんな感情が続くと、
まともな生活が送れないからと、
湧き上がってくる後悔の念を
麻痺させるような言動に走りがちです。
お酒や薬で自らを痛めつけたり、
代わりの誰かを痛めつけたり、
反対に
自分が惨めになるような行動をとったり…。
そこまでいかなくても、
もっとも多いのは、
自問自答と称して、
その実悶々とただ自分を貶めながら
苦行ともいえるような心持ちで
日々の仕事や人間関係に嫌々接することで、
ますます自分の中に巣くう
後悔の念を固定化させたりします。
逆説的ではありますが、
そうすることによって、
一時的には、感じなくて済むようになります。
感じなくて済むけれど、
なくなったわけじゃなくて、
さびや腐食やシロアリの侵入を
臭いものに蓋をして
見えなくしているだけなんですけどね。
ちょっとだけ待ってください。
それやっていると、
その反動が何倍にもなって
自分に跳ね返ってきます。
自分がやったことは、
巡り巡って自分に返ってきます。
これは単なる道徳律の問題だけではなく、
世の中の定理だと思います。
誤魔化した分の何倍にもなって、
後悔の念が自分を傷つけだし、
ますます混乱させられます。
悲しいことに、何の意味もない。
もう一度、
その念としっかり向き合ってみてください。
喧嘩してしまった?
怒りをぶつけてしまった?
逃げてしまった?
嘘をついてしまった?
傷つけてしまった?
支えてあげられなかった?
力が足りなかった?
もしそれらが、
後悔の念の根っこにあるのであれば
こう考えてください。
それは、
みんな、
その時のあなたの
“精一杯の選択”だったんです。
汚いことをやってしまった、
助けてあげられなかった、
追い込んでしまった、
それらも皆、
その時のあなたの
“精一杯の選択”だったんです。
後悔というのは、
本当はできるはずだったことを
ちょっと手抜きしてしまったり、
いい加減に考えてしまったり、
取り返しのつかないことをしてしまったり、
自分さえよければと行動してしまったり、
大切な人を救えなかったり、、
そんなことを
気が付いたらやってしまった後で、
自分の器や度量の小ささや、
自分の洞察の足りなさや、
自分の受け入れの不足や、
そういったことに思いが至って
湧き上がる心の動きで、
それが反省につながった時には
その人の成長を促しもするものですが、
そうならない、
あるいは二度と訪れない機会だったり
そんな時には、
ただひたすら
以降の自分の成長を妨げるように
いつまでもその念に捉われ続けています。
誤解を恐れず言えば、
一見、真摯に見えるけれど、
実は尊大な態度でもあります。
同時に、救いでもあるのですが。
私はかつて、とてつもない大きさの
後悔の念を持っていました。
胸が張り裂ける、どころではなく、
四肢がばらばらに分解してしまい、
体を支える骨と内臓が内側から崩壊し、
心も魂も霧散してしまったような
毎日頭を柱に打ち続けて泣きながら
後悔していたことがありました。
いつもお話ししている
原家族がばらばらになったとき、
父が自死した時のことです。
なぜ、自分が食い止められなかったのか、
もっと何かできたのではなかったのか、
なぜこれほどにも自分は無力なのか、
両親の苦しみを取り除いてやれなかったのか
……
今思い出しても、この体と心が
よくもってくれたな、というほどの
苦痛の日々でした。
そして、先に書いた通り、
ある種の尊大さの故であることを
まだきちんと理解できてもいなかったために
湧き続けた感覚でもありました。
自分がしでかしたことが法に触れるなら、
あるいはとてもひどいことであるならば、
以前にも申し上げたように、
それらは、決して正当化はできません。
でも、理由はともかく、
それがその時のあなただった。
救いと言ったのはそういう意味です。
気づかずにまだ、やり続けるような人も
世の中にはいるわけですから。
そしてそういう人は
なぜだか知らないけれど、
文句ばかり言っている。
でもあなたはそうではなかった。
自分のおかしな部分に気づき始めている。
ただ、いずれにしても、
それがその時のあなたの選択だったんです。
もしかすると、
それはあなたができる範囲の外に
あったことなのかもしれない。
その時だけでなく、
本来、人ができたことでさえ
なかったかもしれません。
それをできると勘違いして努力して
それが達成できなかったから後悔している
というのは、
これで終わりにしましょう。
後悔の念のもととなることが
本当に自責になることなのかを見分け、
もしあなた自身が
受け止めるべきことならば、
しっかりと受け止めてください。
そんなもう一人のあなたと
一緒に生きていけるのは、
他の誰でもない、
あなただけです。
それが、決して公平ではない
あなたの人生を背負うということです。
自分を許してあげてください。
やっちゃったよな、と。
繰り返しますが、
正当化するのではありません。
自分を受け入れ、
一緒にいて、一緒に生きることなのです。
やがて、そんな自分が周囲を
受け入れるようになります。
先へ進むために。
納得できる人生を送るために。
ー今回の表紙画像ー
『何の花? ~ 街の西を流れる川沿いの遊歩道より』
きれいだったので、撮ってみた。
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