時間がない、というのは禁句で、
時間は見つけるもの、
作るものではあるのですが、
やりたいことがたくさんあると、
その中でもどうしても
プライオリティが下がるものがあります。
先日も、時間がない、なんて
つぶやいた記憶があるし。
小説や漫画や映画など、
こういった物語を見たり読んだりすることが
私は大好きなのですが、
このブログも含めて、
他のやりたいことに時間を割いていると
なかなか時間がとれません。
ちょっとした笑い話なのですが、
大のラーメン好きの友人に
「自分もラーメンは好きなんだけどさ、
ざるそばとか焼きそばとかあると、
ついそっちを選択しちゃうんだよね」
と言ったら、
「そういうのはラーメン好きとは言わん」
と、
一言で切り捨てられたことがありました。
それと同じことなのかな。
それでもなんとか時間を見つけて、
お店を回ったり
ネットでスキャンしたりして、
昔の小学生(今は少し違うみたいですね)が
ようやく発売された新刊を
待ち焦がれた末に購入し、
家に持ち帰って読みふけったように、
ささやかな期待に胸を膨らませつつ
手に取って料金を支払い、
あるいは購入ボタンをポチっと押したり、
図書館の受付で借り出したり、
時には友達から借りたりして、
見ることもあるのですが、
当然ながらいつも感動して終わる
というわけにはいかなくて
時にはハズレがあったりします。
ハズレには、
面白くないな、というのもあれば、
なんかどっかで見聞きしたな、
あれの二番煎じ(時には五番煎じくらい)だな、
というものもあります。
二番煎じが悪いわけではなくて、
そういった作品でも面白いものは
たくさんあると思うのですが、
二番煎じで面白さを感じないの作品には
面白いストーリーを“効率的に”見つけて
その効率の法則性のようなものに従って
ブロックを組むように作り上げた、
そんな感じがして
馴染めないせいなのかな、
とも思います。
こういった時間は、傍から見ればきっと
中年のおじさんのどうでもいい
戯れなのでしょうが、
私にとってはとても貴重で
これからだって没頭する時間を
何とか見出そうとしています。
他にも
淡水魚の飼育や
物語の執筆や
いくつかそうやって
時間を作ってやっていることがありますが、
これは誰が何を言おうと関係ない
私の嗜好に根差した、
人生の大切な時間なのです。
ずっと昔、
とあるメンタルクリニックで行われている、
ドクター主催のミーティングを聞きたくて
患者として通院していたことがあります。
そのミーティングに出席できるのは、
そのクリニックの患者のみ
というルールがあったからです。
通院前から知っていたのは、
そこのドクターは、
心を病み、痛めてやって来る患者に
とても愛着を持っている、
ということでした。
何でもかんでも
普通とか常識的であることを
求める社会に対して、
彼は、
耳鼻科医の友人を例に出して、
こう言っています。
その友人は、健康できれいな耳を見ると、
針で突っついて血を流したくなってしまう、
のだそうです。
この表現だけでは
ちょっと危ない感じもしますが、
もちろんそれを実践していることはなく、
耳に疾病を抱えて、
自分のところへやってくる患者さんと
彼らの健康から少し外れた耳が、
とても愛おしいからだそうです。
同じように、
このメンタルクリニックのドクターも、
自分を頼って訪ねて来る患者が
とても興味深いとのことでした。
なぜか手首を切ってしまう、
借金が止まらない、
人を見ると怖くて仕方がない、
など、そういった人を見ると、
疑問符が湧いてくる、
このWhyを求めることで
自分の人生が豊かになる、と。
私が当時抱えていた、
原家族の崩壊と、
肉親の自死とによる
自分の不安定な感情について、
このドクターに話すことを
私はしばらく躊躇していました。
私が通院していたクリニックでは
私が抱える過去と痛みは、
事例としてはともかく、
その傷の大きさとしては
“普通”であったと思います。
そもそもがメンタルクリニックとして
それなりに知名度があるところで、
少なくない数の患者が訪れていましたが、
とてもここでは書けないような
凄まじい症状を呈している方もいれば、
抱える過去の問題が巨大で
今もそこに飲み込まれたままの方も
見られたりしました。
そういったところに、
話を聞きたいからという理由で
ぽつりと入ってきた私の抱える悩みなど
少なくともそのドクターにとっては
興味がわくような話でもないだろう、
そう思っていたからです。
実際、
彼自身が主宰するミーティングでも
諸々の不満や悲劇を述べながら
苦情を口にする患者に対して
「そういったかわいそうな私物語は
聞きたくない」
「聞き飽きてしまった」
とよく口にしていました。
彼もまた若い頃はずいぶん
そういった患者の物語に心を奪われ、
何とかしようと奔走もしたらしく、
かつて私が母にしようとしたことと
そっくりだと思って話を聞いた記憶が
あるのですが、
その末に行き着いたのは、
そういったアプローチ自体が
患者の恢復を遅らせる、
というものだったようです。
例外はと言えば、女性の性被害の話
くらいだったでしょうか。
ともかく、
その場で何度も耳にした彼の発言は
長く私の意識に残り、
彼に話をすることをやめてしまった
だけでなく、
私が自らが抱える苦しみと
他者にとってのどうでもいい話
という対比のもとに、
自分の内にとどめ置いてしまい、
自身できちんと向き合うこともできず、
結果として、
恢復を遅らせてしまいました。
私がドクターに話を聞いてもらうことを
躊躇した理由、
それは
どこかで自分の経験の特殊性を求め、
そこに免罪符を、
つまり
自分が苦しんでいることの“正当性”を
求めていたからだと思います。
他の誰かと違って、
こんなに不幸で苦しんでいて、
だから誰か助けてほしい、
そういうことです。
残念ながら、
その“正当性”の担保を
外部に求めているうちは、
願いはかないません。
そこに置き去りにされたまま、
魂の血を流して倒れている自分を
無視し続けることになるからです。
今、
あなたが抱える悩み、
その大きさや質や正当性、
そういったものは実は、意味がありません。
少なくとも、
あなた以外の誰かにとって
あなたがアピールしなければいけないほど
大きな意味はないのです。
そんなことを言われたら、
悔しくて哀しくて仕方がないかもしれない。
でもそうなんです。
今、
自分が苦しんでいる、
どうにかしたい、
その感覚こそが大切なんです。
私はそこで、上述のように
少しばかり遠回りをしてしまいました。
それはそれで貴重な体験だったし、
私なりの洞察もできた、
そこで苦しんだからこそ身に着けた
自分なりの対処方法もありますし、
私を頼ってくる方に対して適用することで
良くなっていただいたこともあります。
でも、その方面の
プロにでもなるつもりならともかく、
そうでないのなら、
良くなるにしても遠回りになるような
被害を訴えながら、
誰かを悪者にしながら、
誰かが自分を助けるべきだと思いながら
その場にとどまる愚から
少しでも早く脱してほしいのです。
その場にいて、
悪態をついて、
それですむならいいけれど、
多くの場合、その先には
そういった自分の在り方が原因となって
訪れる、
魂の死、
時には物理的な終焉までもが
早晩訪れることだってあります。
どこの誰が読むともわからない空間へ向けて
表現や言い回しを変え、
拙い比喩や経験談を持ち出して
こんな駄文を発信するのは、
そんな理由からです。
ね、
あなたの抱えるその苦しみ。
いったい、誰の話?
よくあること?
どこかで言われていたこと?
珍しくもないこと?
解決事例がある?
誰かが何とかすべき?
いつかも言ったけど、誰が何と言おうと
それはあなたの人生に起こった
あなたの出来事なんです。
悔しいかもしれないけれど、
誰も責任を取ることができない
あなただけの物語なんです。
万国ぴっくり博覧会に出して
専門家と称する人々が驚いて
同情すれば解決する、
そんな類の話ではありません。
あなた以外の誰も、解決なんてできないんです。
This is the story about you
そういった歌詞があるけれど、
これはあなたの物語です。
他の誰かの物語ではないし、
他の誰かがどうにかしてくれる物語は
ありません。
私でも誰でもいい、
専門家が必要なら、自分のために
きちんと『利用』して、
その苦しみが薄らいだところをイメージして
自分の心と魂を自分で安らがせるように
日々、取り組んでみてください。
ー今回の表紙画像ー
『街の西側を流れる川』
街はずれを流れる川を見ると、どんな生き物がいるんだろうと興味が湧いてしまう。プチ病気レベル。
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