時々、古い小説を読み返すことがあって、
先日は部屋の隅に
埃をかぶったままになっていた
村上春樹氏の作品である
『風の歌を聴け』と
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
を読み返しました。
長く手に取っていなかったのは
理由があるのですが、
前世紀末の頃は、今のHarukistよろしく、
氏の本を好んで読んでいました。
始まりは学生時代の『ノルウェーの森』で、
そこから初期の青春三部作にうつり、
そして、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
に至りました。
父母の仲がおかしくなり、
原家族が壊れて、
生きる基準の主要な一部を見失っていた
当時の自分にとって、
束の間、
安らかな世界にひたる時間を与えてくれる
彼の作品に溺れていた時期です。
かつて多くの権力者が求め、
銀河鉄道999でもテーマとなりましたが、
永遠の命を獲得することを
ある種の人々が求めています。
私はと言えば、
できるだけ健康に生き続けていたいし、
半世紀生きた割には、
今のところまだ
体のガタもそれほどありませんが、
いつか訪れる死に際しては、
痛い思いをすることなく
さっと逝ってしまいたいです。
後100年くらいたったら、ですかね。
先日読み返した作品のうち、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
は、1985年に発売された、
データを暗号化する“計算士”(主人公)と
それに敵対する“記号士”の争いを描く、
一風変わった作品です。
いえ、その争い自体は、
物語の主軸ではありませんが、
まあ表面的なストーリーとしては
そんなことです。
データの暗号化は、
情報を扱うあらゆる企業にとって、
企業秘密を守るために必要なことで、
世界中で研究が行われ、
多くの手法が編み出されています。
ことに戦争などでは、絶対的に重要な方法で、
第二次大戦時、真珠湾攻撃の時には
既に米国に暗号を解読されていた日本軍が、
その後たどった状況を見れば、
人の生き死ににつながるほどの
機密であることは論を待ちません。
暗号化(その反対を復号といいます。
こちらは“化”がつきません)は
基本的に数式を用いて行われたり、
スパイなどは送り側と受け側が互いに
同じ本や新聞の同じページを照合にしたり、
していましたが、
いずれも手法がわかってしまえば、
復号されて情報がばれてしまう。
そこで、
ランダム数値を利用したアプローチが
試みられるようになりましたが、
これも暗号化したデータの復号時には
その情報が必要ですから、
やはりばれる可能性がある。
物語の中で、
“計算士”がデータを暗号化するときに
使用するのは、
数式でもなければランダム数値でもない。
本でもなければ新聞でもない。
彼・彼女がもつ心の世界を通して
暗号化が行われるのです。
一種の催眠状態なのかわかりませんが、
“計算士”がデータを暗号化
(スクランブルと表現されていたかな)
する状態になると、
意識がなくなり、
気が付くと鉛筆で紙に数値が羅列されている、
という話だったような。。。
主人公の計算士がスクランブルをかける
心の世界のキーワードは
『世界の終わり』です。
暗号化のキーワードが、
“計算士”の持つ心の世界(精神世界)
というのは斬新で、
そのキーワードから推測されるように、
主人公の計算士の『世界の終わり』
なるキーワードで描かれたのは、
村上氏特有の描写の繊細さと
ひっそりとした静けさ、
そしてその中でしっかりと守られている
何物にも触れさせない
“自分だけの大切な世界”、
競争も争いもない、
素朴で満たされていて
ある種の人が望む、
理想的な世界でした。
繰り返しになりますが、
彼の作品全般に漂う、そういった
素朴で安らかでひっそりとした静けさに
魅了されて共感する方は多いと思います。
某文学賞も取りましたしね。
後に有名になる、小川洋子さんなども
色濃く影響を受けているような気がします。
物語の紹介は、
いつか書評のページに載せるとして、
物語の中で永遠性というものについて、
面白い話があったので紹介します。
もしかしたら昔から
言われていることなのかもしれませんが、
私が知ったのはこの本です。
永遠とは
時間を未来に引き延ばして得るのではなく、
時間を際限なく分解して不死に至る、
というものでした。
多分に観念的な話ではあるのですが、
永遠性というものを
先へ伸ばすことで獲得するのではなく、
今現在という中に潜り込んで位置付ける
という発想は面白かった。
同じ土俵なのかわからないけれど、
自分の望みをかなえることは、
未来に目を向ける前に、
今(まで)を
とことん受け入れることの中に
描き出されるものである、
そう感じています。
もし、今ここ、というものを
納得いく表現で表すとすると、
そういうことなのかな、と思います。
そんな彼の示唆的な作品ですが、
前述のとおり、
手に取らなくなって随分時間が経ちました。
読まなくなったのは、
自分を恢復しだしたころからでしょうか。
彼がノーベル賞候補に挙がった際に
何かのインタビューに答えて、
自分は常に弱者の側にたっている、
という通り、
彼の作品は一貫して、
そういった視点から描かれている
ように思えます。
それは当時の私のような人間には、
為政者・権力者の姿勢・あり方に
異論をぶつけながら
弱者に救いを差し伸べるように、
今の不幸というもの、悩み苦しみは
決してあなたのせいではないのだ、と
居心地よくさせてくれるように、
読めてしまい、
そんな感覚の中で、
彼の物語にひたろうとする自分に
どこかで危惧を覚えた、
それが彼の本から遠ざかった
理由だったと思います。
決して、この物語自体が
いいとか悪いとか
そういうことではありません。
今ここに生きている私自身を、
そんな立場に当てはめてしまうことが、
ある頃から卑怯だと感じ、
また誤解を恐れず言えば、
私にとってはきっと
彼が生み出す世界観の中にとどまることが、
自分が求める未来を喪ってしまう
そう感じるようになったのです。
言い換えれば、
まるで安らかな不安の世界が織りなす毛布に
無垢の赤子がくるみこまれるような状態を
感じ続けることは、
自分が置かれた状況がどうであれ、
本来、胸を痛めながらも動かし続けるべき
自分独自の感覚とか行動を鈍らせながら
ある種の依存症的な世界に陥り、
徐々に自分を蝕んでいってしまう、
当時うまくまとまらなかった思考を、
今、言葉にするなら
そんな考えだったのでしょう。
胸の中に取り込んだ物語は、
その時々の情感が望む世界に変換されます。
当時の、
不健康な心持ちの若造には
うまく昇華しきれない類の
世界観だったのかもしれません。
高校生でもさらりと
楽しめる作品であることを思えば
それほどに世の中と接する部分の感覚が
痛みであえいでいたということなのかな。
そう考えると、
その頃としても精神的に未熟だった自分に
若干の恥ずかしさを感じたりもするけれど、
そんな彼も今はしっかりと
私の中で一緒に生きていてくれます。
だからなのか、
四半世紀ぶりに読み返してみたら、
なんか単純に面白かった。
今度は何を読もうかな。
ー今回の表紙画像ー
『本日日中の空』
昨夜の雷と言い、梅雨明け宣言出るかと思った。
もう少し続くんですね。
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