折り合いをつける

日々の棚卸

 

以前、友人の息子さんがまだ

幼稚園くらいだった頃の話です。

私が彼の家に遊びに行って、

ついでに彼の息子のQ君と

家の庭で遊ぶことになったことが

ありました。

当然ですが、Q君とは、

私が友人の家に遊びにいくたび

顔を合わせて(?)いまして、

とは言っても回数的には、

年に数回ほどではあるのですが、

それほど顔を合わせない割には

Q君の成長を

定期的に見ていたような気がします。

子供というか幼児というのは

とても面白くて、

その時も、私とじゃれあって

いたかと思えば

(Q君はプロレスごっこをしていた

つもりだったようです)、

次の瞬間には

しゃがみ込んで、

庭の隅の穴に続くアリの列に

じっと見入り、

シャツ一枚で部屋から外に出た息子に

冬だったのでお母さんが

ジャンパーを着せようとすると

面倒臭そうに駄々をこね、

まさに七変化を見せてくれていました。

この時に限らず、

子供というものは、ほんとに

気分も行動も言ってることも

コロコロ変わるものだなあ、と

面白おかしく感じたものでした。

子育てを経験されている方は

私などより余程よく

ご存じではないかと思います。

そして、友人からも言われているのですが、

「かわいいかわいいだけじゃ

子育てはでけんぞ」

とも思われているかもしれません。

 

何が言いたいかというと、

子供は、

ついさっき怒っていたと思ったら、

今度は笑い出して、

急に泣き出したと思ったら、

今度は目の前のことに没頭しだして、

目の前の状況に合わせて

その時々の素の自分の感情を

憚ることなく、見事に表現します。

そういった変化(へんげ)を見るにつけ、

これが大人だったらきっと、

二重人格とか三重人格なんて

思われるかもしれないと

ほんの一瞬思ったのですが、

よくよく考えるまでもなく、

私たち大人もまた、

心の中は概して

同じだったりすることに

思い当たります。

 

以前、竹中直人氏の

『笑いながら怒る人』というギャグを

取り上げたことがあります。↓

https://nakatanihidetaka.com/stp_vctm/

彼のデビュー当時のネタで、

「なんだと、この野郎」と

顔を笑顔で引きつらせながら

悪態をつくという

まことにシンプルな(?)演技で

今もって私にとっての“ツボ”だったり

します。

 

人間、なかなか同時に相反する感情を

表現することはできないものですが、

表現できなくても、

あるもの(感情のこと)は

確かにあるのであって、

これが意味することは

相反する感情を含めた複数の感情が

同時に自分の中にある、

しかもそれは特定の状況や時間の中だけに

存在するのではなくて、

常に自分の中にある、ということです。

感情といってしまうと、

何だか体の中にある一つの機能みたいに

感じてしまうかもしれませんが、

これ、つまり一つ一つの感情は

まごうことなき

一つの人格、一人の自分です。

あるモノの見方、感じ方、考え方をする

自分という存在があって、

その自分がその時々の事象に合わせて

反応しているということです。

 

あまり良いたとえではありませんが、

私の昔を振り返っても、

それはよくわかります。

原家族がばらばらになってしまい

ショックだったことは

以前にも述べましたが、

その後しばらくして起き上がれなくなり、

友達に連れられて大学の付属病院に

行った時のことです。

診療後、ドクターからこう言われました。

「中谷さん、

ちょっと顔色が本当に悪いですよ」

ちょっと、か、本当に、

かどっちなんだ、

とボーっとした頭で毒づいたものですが、

とにもかくにも年配の

(しかもちょっと名の通った)医者であり、

大学の先輩にもあたる方からの言葉に、

反感を覚えると同時に、

消えてしまいたいという気持ちを

なぜか明瞭に感じていました。

その感覚は、

父の自死まで数年にわたって

私の心の中に色濃く根付いていましたが、

そんな私は同時期に

友人たちと話をして、

時には笑うことさえしましたし、

大学の授業を受けて

ともすれば眠ってしまおうとする

脳みそを、何とか動かしていました。

 

消えてしまいたいという自分、

生きていきたいという自分、

それまで楽しめていた友人たちとの時間を

表面だけでも演出し続けようとする自分、

授業を受ける自分、

アルバイトをする自分、

そんな幾人もの自分がいたんですね。

おそらく幸運なことに、

前者、

つまり消えてしまいたいという自分は、

今は、

私の中で他の私と折り合いがついて、

暴走したり、駄々をこねたりすることなく、

見守られています。

 

ただし、それで、私の中の私が

一人になったわけではありません。

私は以下で↓、自分群という表現を用いて

https://nakatanihidetaka.com/relational_life-2/

複数存在する自分を想定して、

というか実際にそう感じているのですが、

そんな複数の自分の一人一人と

向き合うことの大切さを述べました。

私たちは、

常に多くの私たちの集積のもとで、

時に葛藤し、

相談し、

そして表面上はあたかも

常に意志が統一されているかのような

たった一人の私として

生きていると思い込んでいます。

ですが、これまで述べてきたように、

そこには、私たち自身が

意識するかしないかにかかわらず、

それぞれの自分の間に

圧倒的な調和をもたらすような

折り合いがつけられているのです。

 

楽しい自分1と楽しい自分2と

嬉しい自分と

穏やかな自分

だけし感じないのなら、

それは申し分ないかもしれませんが、

現実には、そういった自分よりも

どちらかと言えば

うつうつとした自分とか、

文句が喉元まで出かかった

不平満タンの自分とか、

過去の出来事が降り切れずに

心に重しを感じ続けている自分とか

弱り切った自分とかが、

時々刻々と感じられてしまうような

場合も少なくないと思います。

そんな時に、

知っておいて、

そして、

自分に働きかけてほしいのが、

自分というのは決してそういった

自分の存在を苦しめる自分だけで

構成されているのではなく

それ以外の余裕のある自分とか

優しい自分、

自分を抱擁する自分や

許してくれる自分がいて

そんな自分によって、

今の状況を生き抜くために

ある一部の自分が暴走しないように

折り合いをつけることが大切で、

しかもしれは繰り返し実践することで

誰もができるようになる、

ということです。

 

先走る感情に惑わされず、

折り合いをつける癖を持ちましょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『街の東を流れる川』