私たちは、社会的な動物です。
引きこもっていたり、
犯罪を起こしてしまったり、
寝込んでいたり、
生産活動とは疎遠だったり、
家族や身寄りがいなかったり、
そんな状態の人をも含めて、
誰もが社会的な動物です。
社会的な動物とは、
集団で生きていく、
少なくとも情緒的、機能的につながって
生きていくということです。
荒野を彷徨う一匹狼ならともかく、
集団で生活していくということは
どうしても、
人に合わせて生きていく部分が
出てきます。
合わせるといっても、
ほんとに無理やり自分を合わせざるをえない
という人もいれば、
自分もそれでいいような気がしているから、
として合わせている人もいれば、
ごく自然に自分に由って生きることが
そのまま人と合っている、
そういう方もいるでしょう。
ただ、
そういった程度の問題や、
肯定・否定な感情はあったにしても、
やはり
自分個人の本能ばかりを満たそうとする
そんな好き勝手な行動ができるということは、
まずあり得ないと思います。
そんなとき、
つまり、人と行動を合わせている時、
それ故に一部の人の心の中に生じる
圧迫感や不快、不愉快な感覚の連続に、
抑うつや無力感、怒りに包まれて、
つい人の関係から引きこもりたいと
感じる人がいます。
実際には、なかなか、
引きこもる、
働くことをやめる、
隣近所と付き合いを避ける、
ということは難しかったりするわけですが、
気持ちとしてはもう一刻も早く
そうした、願わくばそんな環境に
身を置きたい、
そんな話が少なからずあります。
繰り返しになりますが、
現実的に人と全くかかわらない
そういった暮らしというものは、
独裁者か生活保護でも受けない限り
難しいでしょうし、
そうなればなったで、
たいていの場合は、
“さらに”心を病んでしまうものです。
なぜなら私たちという存在は、
もう一人の私たちである
他者とか世間と
何らかの手段で接する中でこそ、
私たちの望み、
つまり生きる方向性を
知覚することができるからです。
きっとたいていの人は、
ここまで書いたことを暗黙の内に
理解しておられるか、
あるいは
そういうものだ、
他に選択肢はない、
と感じているのではないでしょうか。
選択肢がない、という表現は、
少々異論がありますが、
少なくともそう思っていて、
その結果として良くも悪くも
他者と接し続ける日々を送っている。
そして、その中で、
本音とはかけ離れた振る舞いばかりしている、
そんな状況を作り出しています。
そして?
その一方で、
他者から疎まれてしまう、
他者から疎まれているんだ、
誰も理解してくれない、
そう感じていたりします……。
ある意味正しいかもしれません。
あなたがそう感じる理由という意味では、
ということですが…。
決して、
実際に疎まれているかどうか、という
話ではありませんよ。
では、
本音とはかけ離れた振る舞いばかり
せざるを得ない状態とは何でしょう。
なぜそんなことをしてしまうのでしょう。
…自分と真摯に向き合うことを
避けてはいる、
そういうことはないでしょうか。
自分のことを差し置いて
そうするしか選択肢がないから、
という理由で、
嫌々ながら人とつながっている、
そんな自分を
認めていなかったりしないでしょうか。
自分を差し置くこと
それを認めていないこと、
これは自分の生き方に対して
大きな弊害たりえます。
よく、
一度心を開いて
全てのものを受け入れてみよう
そう言われます。
え?言われない?
では、まだ知らないだけということに
してください。
目の前の人、
自らの待遇、
与えられた環境、
変えられない過去、
やってくる未来。
全てのものを受け入れてみようと
言われています。
全てのものを正しい、とするのではなく、
そのまま認めてみる、ということです。
いつも、様々な自分を受け入れることの
大切さをお伝えしていますが、
それと同じことです。
そうして、
それらを受け入れながら、
自分なりに日常をこなしていく中で、
新しい世界が見えてくる、と。
今の私には、それがある種の真実である
ように感じられます。
でもその前に、
やっておかなくてはいけないことがあります。
それは自分が心を開いていない、
オープンになっていない、
と知ることです。
そうわかってないと、
心を開く意味が分からないですからね。
自分の心の状態を知ってないと、
なんで?
と、
不安と不信の感情を伴った疑問とともに
行動ができなくなります。
自分が自分の内面の状態を
感じ取れていない、
理解できていない、
そういったままで人と接しているものだから、
必然、
何が正しいか、
どう振る舞うと受けがいいか、
得になるのか、
叱られずに済むのか、
そんなことばかりを推測して、
自分が由ってたつ
価値観も想いも見据えないまま
表層的な反応の仕方で
コミュニケートしてしまっている。
残念ながら、それでは本当の意味で
つながっている、
ことにはなりません。
その上、コミュニケーションの中で
おかしな負荷が
自分にも相手にもかかってしまう。
一定以上の不自然さが、滲み出てくる。
自分を受け入れていないまま
振る舞っているのだから、
不自然さの塊にもなりますよね。
その不自然さが自分に返ってきて
『自分の中に』
人が疎ましく思う形をとってあらわれる。
そういうことなんです。
人のことはわからないものです。
人をコントロールしようとすることは
少々大げさに言えば、
人生の無駄です。
そんなところにフォーカスするのではなく、
自分のおかれた状況を感じつつ、
自分の由って立つ標(しるべ)を
心の中に見出し、
あるいは醸成していくことに
務めてみてください。
その最初のステップは、
いつも言っている通りです。
ー今回の表紙画像ー
『伊勢佐木長者町駅前花壇より』
伊勢佐木長者町駅前風景。天候のせいか、夕刻も人の姿はまばらでした。
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