人の集まりの中で生きること

日々の棚卸

 

私は特にそういうのはないけれど、

人によって、活動するには

大人数があっている人と、

少人数があっている人が

いるようです。

少人数の中には当然、

一人、とか二人、という区分けも

含みます。

明確に質問して回答の統計を取った

わけではなくて、

何人かの方とそれとなく話をして

人による差があるものだな、と

感じたにすぎないのですけどね。

もちろん、活動には目的があって、

何をするか、

どんな位置づけか(仕事か趣味かなど)

によっても

答えは変わるのかもしれません。

 

ただ、一部の方には

活動すること自体を躊躇したり、

どうしても動き出せない、

ということもまたあるようで、

そういった方々は、

何かをやろうとしたときに、

一人、または少人数で始めることに

不安を覚えたり、

大人数で行うことに面倒臭さや

馬が合わない関係性に嫌気がさしたりなど、

その人なりの理由があるようです。

人数の多寡が時に行動の妨げになる

ということなのでしょうか。

 

私は典型的な核家族の家で育ちましたが、

現代を生きる多くの方もまた

同じような家庭環境だったと思います。

今はむしろ、シングルマザー・ファザーの

家庭環境の方もおられるかもしれません。

 

私を含め、そういった多くの方にとって、

どこまで気になることかはともかく、

どうも昨今の世の中は、

大は小を兼ねるではありませんが、

いわゆるメリットという観点から言えば、

家族も企業も大人数の方がよい、と

いう流れにあるようです。

 

例を1つずつ。

 

歴史学者・家族人類学者である

フランスのエマニュエルトッド氏は

1976年に、

当時隆盛を極めていたソ連邦の崩壊を

乳児の死亡率と家族関係の変遷とから

予言された方です。

その氏曰く、

家族ということに関して言えば、

いわゆる大家族は進化の最新系であり、

少人数で構成される家族は

そこから遠のいた形である、

とのことだそうです。

それが正しいとすると

核家族とは、

最も進んだ家族形態からは遠い構成である、

ということになります。

 

現在は小西美術工藝社社長で、

かつて伝説の金融アナリストと呼ばれ、

一早く日本の銀行の不良債権に言及し、

後の議論の基礎を作った一人、

英国出身のデービッドアトキンソン氏は

日本の貧困問題と、

労働者の質の割りに低い給与の2点から、

少子化・人口減少時代に求められるのは

企業の成長・規模の向上に伴う大企業化

つまり、社員数を増やすことだ、

と豊富なエビデンスをもとに主張しています。

人口増加時代は、受け皿としての中小企業が

多くあることは

必ずしも悪いことではなかったが、

現在はトレンドが反対で、

規模の経済が必要になっている、

とのことでした。

 

私はジャンルを問わず、読書が大好きですが、

お二方の本も、時間を見つけては

興味深く拝読しています。

そんな優れたお二方の主張に対して

私はどうこう言うだけの論を備えている

わけでもないので、

真偽のほどを結論付けるつもりもないし、

できるとも思っていません。

 

確かに、少数より多数の方が

(互いがきちんとつながっていれば)

いろいろと生きていくのに都合がいいという

学者さんたちの結果、結論は

もしかするとその通りなのかもしれません。

これは総体としてみた全体像に関する話です。

 

さてそこで、

総体としてであればともかく

一人一人の個人が生きていくこと、

つまりこれを読まれているあなたにとって

公私でかかわる人の集合はどうなのか、

ということになるとどうでしょう。

もちろん、

目の前にある選択肢にもよりますが、

今いきなりそういった理屈を

あてはめる必要があるでしょうか。

 

2005年に他界した知の巨人である

ピータードラッカー氏は、

目的志向を説明する例えとして

レンガ職人のことを取り上げ、

“教会”を作っているのだ、

という意識(=自負)を持ち出して、

働くこと、生きることの意義を

提示しています。

これは、想いこそが大切、とも読めますね。

 

国内に目を向けると、

『日本でいちばん大切にしたい会社』

(あさひ出版、坂本光司氏著)

にあるように、

社員の7割が障害者の

日本理科学工業社(社員数86名)や、

お客様よりも、株主よりも、

社員ファーストの

伊那食品工業社(社員数470名)、

日本で一番辺鄙な場所にある

オリジナルの義肢装具を提供し続ける

中村ブレイス社(社員数80名)

などがあります。

いずれも、創業者が“想い”を実現しようと

社員とともに築き上げてきた会社で、

そこには規模の経済という概念は

大きくありません。

 

人が集まる理由、うまくいく理由の

切り口は多様であり、

自分が最も納得のいく集団(一人も含む)で

納得がいくように生きていくことは、

世の中で唱えられている論とは別に、

個々人が常に考えることが望ましい

と思います。

 

私たちが何かをするとき、

それがやりたいことであれ、

やらざるを得ないことであれ、

そこには組織を構成する人数の多寡や

組織文化やそういったものに惑わされず、

自分がそこに

“何か”を求めているかを

意識する必要があります。

組織、の中にはもちろん

家族も含まれます。

 

そして、

何を求めているのか、

あるいは

何かを求めているのか、

何も求めていないのか。

 

やりたくないことだから、

何も考えずにやっているだけ、

金をもらうためにやっているだけ、

夫が・妻が・隣人がうるさいから、

家事をしているだけ。

それを悪いとは全く言いません。

そこに気づき、自覚することを意識して

みてください。

自分の内面を

きちんと明らかにしてほしいのです。

何かをするとき、したいときに、

人の集まりの中で行うときに、

自分がなぜ、そこにいるのか

なぜするのか、

どうやってそれをするのか、

それを問うと、

そこには必然的に自分自身がそこで

人とのつながりの中に求めるものが

キーワードになってきます。

決して

格好いい答えばかりではないでしょう。

むしろ、

自分の当座しのぎの行動であることが

自分の中でわかってしまうことに

幻滅したり、

やっぱりそうか、と

脱力&無気力に陥ってしまったり

するかもしれません。

 

ただ、杓子定規に

世の中に広まる理屈のみに流されることなく、

自らに対する思いやりと肯定感をもとに

自分はなぜそうであるのか、

時には、周囲に人が必要なのか(必要ないのか)を

しっかりと感じてほしいのです。

先に述べた、格好悪い自分もまた

“想い”に至る出発点ともいえます。

すると、そのうち必然的に、

その行動の淵源たる原動力というものを

考えるようになると思います。

何をやるかの前に、

なぜやるのか、

そのモチベーションを見つめてください。

どんな人の集まりが自分にとって

最適=素敵であるか、

それは探すのか作るのかまで含めて

見えてくるはずです。

 

それが見えてきたらしめたもの、

最初はほんの少し、

ほんの10分、ほんの1歩、ほんの一手間

でいいので、手を、足を動かしてみましょう。

この繰り返しの中に、その先が表れてきます。

 

ー今回の表紙画像ー

『街の遊水地景』

昨日の夕景の続き。