“今ここ”に入るときの注意

日々の棚卸

 

“今ここ”に“没頭”して

生きられるといい。

本当にそう思います。

“没頭”するということは、

集中するという言葉から想起される、

意志の力とかガッツなどとは別の、

自然な流れというか

全体性のようなものが感じられ、

“今ここ”の本来の意味に

近いように思います。

“今ここ”が、

そんな流れの中で実現できている時、

というのは、

過去とか未来とかに捉われなくなっている、

というよりも、むしろ

本来自分の一部である

通り過ぎた過去も、

まだ見ぬ未来も、

受け入れている時ではないか、と思います。

それが自然の流れの中で、

『今』という時間へ入っていく自分を

無理なく生み出しています。

 

そういったことを

これまでにも何度かお話ししてきました。

過去も未来も今の一部で、

だからこそ自分を受け入れることで

過去や未来に思いを煩わせることなく生き、

それが今ここへの没頭につながるよ、と。

 

一方で、

“今ここ”という言葉が用いられる時、

というのは、

そういう自然な流れを期待できないような、

痛みや苦しみが心と体に宿っている時で、

即効的な解決方法というのは

通常なかなかないような時でもある

と思います。

しかも、大体そんなときに限って

即、“今ここ”に入っていきたい、

とういことがあります。

そんな状態で、

“今ここ”に入っていこうとすると、

儀式というか、

ルーティーンというか、

そういったものを当てにして

実践できるといいと思うのですが、

そんなものを持っているなら

苦労しないし、

心と体に痛みが宿ってしまうような

状態になどそうそうならないですよね。

 

このとき気を付けてほしいのは、

“今ここ”を実現するために、

自分をぶったり蹴りつけたりして

集中させようとしないことです。

そんなことは当たり前、

と思われるでしょうか。

自分を(心の中で)ぶったり蹴りつけたりして

集中するなんて、

そんな本末転倒なこと、

やったりしていないよ、と。

気合いだ、根性だ、と言って

ディスプレイなり紙面なりを

食い入るように睨みつけながら、

歯を食いしばって、脳をフル回転させよう

なんてやっても、高々知れてるから

するはずないよ、と。

 

ですが、実際には、そう言う方ほど

俺は・私は、何やってんだ、

と毒づきながら、

無理やりにでも

“今ここ”へ潜っていこうとすることが

行われていたりします。

仕事で結果が求められているときなど、

自分の評価やチームの損失などを念頭に、

何やってんだ、早くしろ、と

自分に言ってるのか、

パートナーにけしかけてるのか、

わからないような叱咤のつぶやきを発し、

何とか計画通りに進ませようとしているのです。

 

でも、そのやり方は、

やがて別の形で自分に跳ね返ってきます。

もちろん、

“叱咤”のやり方や程度にもよるでしょうが、

跳ね返ってくるところは、

仕事ではなく、私生活かもしれないし、

健康だったりするかもしれません。

時には、身近な大切な人に影響を与える

ということもありえます。

上記は仕事の例ですが、

社会に出て、切羽詰まって

周囲の目が厳しくなってしまうような

状況に陥った時、

ホント何やってんだ、とつぶやきながら

弱気になる自分を“蹴飛ばし”たり

することはないでしょうか。

 

一度深呼吸して、

求めるものを

深くふかーくイメージしてみてください。

大切なことは、

“今ここ”に没頭していくための

一つの流れを作ることです。

叩かず、捨てず、自分を尊重しながら、

時に胸の痛みや

表層的な心のもやもやとも付き合いながら、

その時間に入っていく。

 

集中、ではなく、没頭、です。

そのためにはいつも言うように、

普段から自分の内面を見つめ、

過去を棚卸しし、

様々な自分を受け入れ、

求める生き方を明らかにし、

必要なことを選択し、

実践していくことです。

 

そのように選択したことであれば、

必然的に、没頭しますよ。

 

ー今回の表紙画像ー

『夕景』

沈む直前の撮影に間に合って川岸で一枚。