モノの見方、感じ方は
原家族に色濃く影響を受けます。
校、塾、部活、趣味など、
ざまざまなコミュニティの集まり、
先生や同世代の子供たちや、
隣近所のおじさんおばさんたちからも
少なくない影響を受けるでしょうが、
やはり圧倒的に家族の中で
親から受ける影響は大きい。
どういうことが良いことで、
どういうことが悪いことで、
どういうことが幸せで、
どういう人生が価値があって、
ということを皮膚を通して
胸の奥に焼き付けるように、
吸収し、内在化し、体現していきます。
吸収するのは、
親の言葉や行動というよりも、
そこから滲み出てくる
彼らの本音や雰囲気です。
親がどんな正論を言っても、
どんな振舞いをしても、
その背後に根深く横たわる
彼らの中のモノの見方、感じ方、意志を
子供は敏感に察知して、
自分の人生に投影し、
体現していくわけです。
いや、そもそも親から
そんなことは教わっていない、
特に幸せとか良いことなんて
何も教わっていない、
と言われるかもしれません。
だけどそれは、
そんな形の幸せなどない、
良いことなどない、
そんな幸せなど知らない、
無言のうちに、日常の振る舞いを通して、
そう伝えられていることでもあるわけです。
あるいは、
親とは関係なく自由に生きているよ、
という方もいるでしょう。
でも、実際にはそんなことはありません。
親と関係なく、自由に生きている、とは
反発を覚えて選択した自由、
自由になって生きることが親の望みだった、
実際には自由ですらなかった、
など、
逆説的だったり、
そのものずばりだったりの形で
何らかの影響を受けているんです。
そのくらい、親の影響は大きい。
今さらいうまでもありませんよね。
生きることに行き詰ったり、
困苦で動けなくなったりして、
なけなしの気力を振り絞って原因を求め、
そういった家族の価値観に行き着くと、
はじめて目が見開かれたような
気持になることがあります。
ああそうか、
父のあの怒りに歪んだ表情が、
母のあの恨みを含んだ泣き声が、
二人の間のあの罵り合いが、
心深くまで自分の中に横たわり、
こうやって世の中の見方、人の見方に
つながっているのだ、と。
この気づきを皮切りに、
それまで陥っていた、
自分を貶める、けなす、抑圧する、蔑む…、
そういったことの“愚”を学び、
あるいは気づき、
それをしてはいけない、
それは有害無益だと理解し、
きちんと自分を癒し、
もう一度歩き出そうとなります。
さてこのとき、
つまり落ち込んで苦しんでいた状態から、
癒しが必要な自分を知り、
それに取り組み始めると、
周囲からの圧力を感じることがあります。
周囲とは、
家族だったり、
会社の同僚だったり、
友人関係だったりと
様々ですが、
癒しの取り組みに応じて変化する
あなたの言動に対して、
反発や攻撃の雰囲気を感じることが
よくあるということです。
これを感じ取るのは、
癒しを必要とする感情の裏側に、
往々にして存在する
攻撃性と加害性が影響しています。
え、と思うかもしれません。
周囲が問題なのではなくて、
癒しが必要な自分が、
攻撃性や加害性を持っているなんて、と。
ですが、これはメカニズムを考えれば
それほど難しいことじゃない。
打ちひしがれるに至った自分が
その過程で受けてきた傷に応じて、
反発する感覚もまた宿っているからです。
心理的作用反作用の法則とでも言えば
いいでしょうか。
そんなのない、
私はそんな気持ち絶対持ってない、
と言われる方、
そのまま癒しに取り組んでみてください。
それですんなり癒されて
次のステップに進めるのであればよいのですが、
頭の片隅にでも
留め置いていただければと思います。
この攻撃性と加害性を認識できると、
新しい自分を生きだす過程で、
他者との無用な衝突を減らすことができます。
この場でいつも、
自分を受け入れることの大切さを
繰り返し述べているけれど、
自分を受け入れるということは、
自分の中にある自分をすべて
自分の一部として認める、寄り添う、
ということです。
そこには、
癒される必要がある自分もいれば、
泣き崩れてめそめそしている自分もいる。
そして、
決して正当化してはいけない
暴力的な自分もいます。
これらは常に対となって抱えるものだからです。
暴力的な自分とは、
さすがにグーでポカンと人をたたく
と言う意味で暴力的な人はいない、
と信じたいですが、
そうでなくても、
怒鳴ったり、喚いたり、
ネチネチと嫌みを言ったり、
周囲を巻き込んで一人を虐めたり、
時には
仕事を通してつるし上げたり、
など、
繰り返し、際限なく、言葉や態度で
誰かに対して、
非を刷り込もうとする自分のことです。
誰か、は場合によっては自分も含むことは
言うまでもありません。
そんなことをするくらいなら、
もっと別の言葉を捧げてほしいものですね。
ともかく、
その暴力性が自分に向かうか、
外に向かうかはその人次第。
どちらに向かうかは関係なく、
誰のためにもならないことです。
おまけに、
相手も、自分も傷つけ続けているという
認識がない。
自らを被害者の位置にとどめて、
それが故に自分に被害を与えた相手に
ひたすら知らしめようとすることは
その際たる一つで、
ここまで述べてきたことがそのメカニズムです。
ある程度自分の受け入れが進み、
自分の中に自分の不備や悪いところを
指摘する余裕が出てこないと、
なかなか認めづらいことかもしれません。
暴力的な自分とは怒っている自分です。
いつも言うように、感情自体に責任はないし、
被害を受けた人が怒りを覚えることは
ごく自然なことです。
ただ、それが暴力として誰かに向かうと、
それが自分にダメージを与え、
恢復を遅らせます。
そういう感情・感覚が自分の中にある、
そういったことは頭の片隅に置いておいた方が
繰り返しになりますが、
無用な衝突を避け、
自分を慈しんでいきやすくなると思います。
無用な争いを避けることは、
自分を守る
そして大切な人をも守る、
効果的な方法です。
ー今回の表紙画像ー
『道端の花 ~ 朝散歩より』
AM7:00ですでに蝉の大合唱。ミンミンゼミ、クマゼミ、アブラゼミ。
汗だくで帰宅してシャワーを浴びた。
なんかとても健康的だな。
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