自分で導き出すといい

日々の棚卸

 

うまくいかないときというのはあるもので

特に難しいことではないにもかかわらず

起きてしまったり、

起こしてしまったりする、

そんなことが続く、

とやりきれなくなります。

仕事上の致命的なミス、うっかりミス、

相手を追い込む言葉をぶつける、

電車内のいざこざ、

人の言葉をいつまでも悶々と気にし続ける、

……。

きっとその人ごとに、

このスペースでは書ききれないほど、

様々なことがあるのではないでしょうか。

 

今でもよく覚えているのですが、

会社に入社し、新人として配属された部署で

OJT(On the Job Training)を受けていたとき、

新しく電子回路の設計を任された

ことがありました。

任されたといっても先輩方からすれば、

まだこの新人だけでこの回路設計を

完成させることは難しいと考えていたようで、

その旨を私に、

わからないことは調べて、

それでもわからなかったら聞け、

と言われていました。

当時はインターネットがなくて、

調べるとしたら

社内の情報センター(いわゆる図書館)まで

出向く必要があったのですが、

聞く方が早いと考えていた私は、

OJTをしていただいた方が

話しやすい人だったこともあって、

不明部が出てくるたびに、

その方に質問していました。

 

ここで問題がありました。

その方は、回路のことをよくご存じの方で、

とても丁寧に教えていただいていたのですが、

肝心の新人君、

つまり私の頭がついていかない。

加えて、当時の私は

原家族の問題を引きずって

そこに言い訳を求めていた頃でもあり、

それもまた理解の妨げと

仕事の進捗を遅らせる原因に

なってしまっていました。

 

必然、出来上がった回路の動作は怪しく、

欠点を指摘される羽目になります。

当時は、指摘を受けるたび、

全人格を否定されたような気になって、

悶々としながら、言い訳を求めました。

先輩からすれば、ただおかしな点は直して

今後気を付ければよいだけなのですが、

なけなしの自尊心にすがって生きていた

状況の若造には

そこまでの余裕さえありませんでした。

うまくいかないのは、

自分には特殊な過去があって、

好きでもない仕事で、

こんな状態なんて誰も理解できないだろう…。

これ以上書くのが憚られるような

言い訳が並びます。

もちろん表層意識では、そんなことさえ

察知しません。

もっとベタに、

言われた通り作ったんだぞ、という

何とも横柄な感覚でした。

一方で、会社とは、仕事とは、

要求されたことをきちんとこなしていく

ところだから、

理由はどうあれ出来ていない(動かない)

ということは、

結果アウトだ、という

ダメだしする頭だけはあって、

それが先の言い訳とともに

二重に自分を苦しめていました。

他の誰のせいでもない、

私自身が生み出した問題です。

 

いつも言う、

様々な自分を受け入れだした頃から、

この状況が変化を見せるようになりました。

あの時、どうすればよかっただろうか、

ということです。

一番いいのは仕事をそつなくこなす、

わからない所は聞き、

叱られたことは受け入れる、

でしたが、

それができなかった。

相手を責め、自分を責め、遠回りをした。

あの時の、

それが自分だったのだ、

自分なりに立ち回った自分だったのだ、

それが導き出した答えでした。

言い訳する自分、

怒る自分、

自分の非を責める自分、

人を嫌う自分、

誰にも正当化はできないけれども、

そういった一人一人の自分と

もう一度胸の中で対面し、

話をし、

“抱きしめ”、

どうしてそうなっているのかを問い、

またもう一度“抱きしめ”、

涙を流し、

一緒に生きていくと誓う、

その繰り返しの末のことでした。

 

クビになっていたとしても

仕方がなかったかもしれません。

周囲からつるし上げられる可能性だって

あったかもしれません。

そこまでいかなくとも皆から嫌われて、

それこそいじめを受けて

いたかもしれません。

でも、そうはならなかった。

そうなりかけたこともあったけど、

うまく周囲がおさめてくれたのかな。

周囲からすれば私という若造は、

厄介で、

あまり近寄りたくなくて、

といった存在だったかもしれないし、

冷静に考えれば、

彼らの感覚の方が妥当なのかもしれません。

哀しいけれど、

そう受け止められても仕方がないと思う。

でもそれと、

自分が自分をどう受け止め、

どう生きるかは別の話です。

そこから少しずつ、

仕事の仕方、

人との接し方、

話の仕方、

生きる姿勢、

そういったものを手探りで変えていく中で、

実際に人生がよい方向に変わってきました。

決して、今何もかもがバラ色、と

いうわけではありません。

ですが、誰がどう見て、どう感じても

よい方向に変化したことは確かです。

 

これは私の若い頃の仕事の一場面ですが、

同じようなことは、

日常にいくらでもあると思います。

込み合った電車の中で

後ろの人のカバンが背中に当たり続ける、

隣人から気にかかる言葉を投げかけられる、

後ろの車がやけに接近してくる。

事情は様々です。

でも、自分がそういうのは嫌だ、不快なのだ、

理屈抜きに認めると、

今度は相手の側の感覚や言い分にも

意識が回るようになります。

(理屈抜きに認めて、

だから相手に襲い掛かるとかはナシですよ)

理屈つけるからややこしくなる。

ここはこうすべきところだ、

こうあるべき場所だ、

などしゃくし定規に構えないことです。

そうやって自分を認めていくと、

自分が認められた分だけ、

こちらに不利益をもたらそうとしている

言動というのは、

意外に多くないものである、

という答えが導き出されるものです。

問題は自分が作り出している部分がある、

という所以ですね。

これは、

自分の感情をしっかりと受け入れ続ける中で、

洞察と実践とともに導き出すしかないことです。

 

そんなことを、

自分を受け入れ、

自分の中にある何人もの自分と寄り添う中で、

繰り返していくと、

まず日常が少しずつ、

楽で良い方向に変わっていきます。

それに気づく頃には、

今度は日常以外のこと、

過去の解釈や、

未来の予感もまた、

自分を勇気づけ、導いてくれるように

変化していきます。

 

そうなると、いいですね。

 

ー今回の表紙画像ー

『町の夕景2』

この間ふと思い出したのは、町が夕闇に染まりだす頃、子供の頃に読んだ江戸川乱歩の世界。もちろん子供版の方ですよ。