はしごを外されたと思い込んでいた

日々の棚卸

 

家族が離散し、

長く心のどこかで腹を立てていた親のことを

受け入れるまでにずいぶん時間がかかった。

紆余曲折の末、

和解してまた共通の時間を

持つようになったときに感じたのは、

まだ家族が離散する前、

親の苦労話や親からの教育を

疑うこともなく頭で理解していた

子供の頃の感情に

共感が加わったということだ。

親と私では

育った時代背景があまりに大きく異なるけれど、

そういった差異とは関係なく、

彼らを心情として共感できたということは、

その時ようやくにして

親と自分が別個の人格であることをも

体と心が理解したということだ。

 

子供は、親の価値観と与えられる愛着によって

確固たる自己を築き上げる。

多くの親が心の中では、

子供の可能性を伸ばして

幸せになってもらいたいと願っている。

しかし、そこに自分の価値や希望を

子供のためと称して躾ける親もまた多い。

大抵は、

苦労しないために何としてもこれだけは、

と諭すか、

泣き落とすか、

強権を発動するか、

のどれかの手法をとる。

子供は生活能力がないから、

反発しながらも肝心なところで自我を

『歪めて』従うか、

ドロップアウトするかだが、

いずれにせよ、

自分の不向きなこと、

嫌になってしまうこと、

苦痛しか感じないことに、

無理に理屈をつけて歩き続けるしかなくなる。

 

立身出世という言葉は今の時代、

死語のようなきもするけれど、

時代ごとに形を変えて

常にどこかで目指されていることで、

その原動力は多くの場合、

自分以外の大切な何かを守るため

だったりする。

例えば、

恵まれなかった、と感じている親と、

それを代理体現しようとする子供。

一歩一歩、

足場を確認しながら梯子を上り続け、

位置が高くなるほど達成感の横に

妙な陶酔感や自己誇大感が

根付くことがあるけれど、

そんな感覚を持たずにはやっていけなかった

世の中の見方の『歪み』や『勘違い』が

長い間に蓄積されてもたらしたものだ。

 

家族が離散したとき、とても混乱した。

混乱という言葉の中には、

ほんとに様々な悪感情が渦巻いていて、

それをどうしたらよいかもわからず、

社会をドロップアウトする余裕も勇気もなく、

それらの渦巻きが外に暴発するのを

必死に抑え込みながら、

小さな、ほんとにちっぽけな日常を生きてきた。

その時親に持った感情の根底にあったのは、

詰まるところ、

猛烈な寂しさと哀しさの2点につきる。

同時に、

情動ではなく感覚として感じたのは、

梯子を外された、というものだった。

普通、

梯子は外す側に利があって外すのだから、

そんな比喩はおかしいけれど、

裏を返せば、それほどに

自分のことで頭が一杯だったのだと思う。

このおかしな比喩が、

先の『歪み』『勘違い』からきていることは

最後に話す。

 

ともかくも、世の中的に見れば、

そんな御大層なことをしていたわけでは

もちろんないけれど、

身も蓋もない、

というよりいささか幼稚な表現をすれば、

日本の最高峰の一角を占める私立大学を経て、

一流の外資系企業に就職するところで、

梯子の下には、

喜びながら、

自分が帰る世界を保つべく

居続けてくれるはずだった家族が、

両親の都合で一方的に消えてしまったことに、

それまで信じていた世界、

自分が考え、動き、感じる基準だった世界が

消えてしまったことに、

直感を含めたあらゆる感覚器官が

混乱してしまったのだ。

「頑張れ」「まだいけるぞ」

何か壁に当たる度、

そう勝手に親の言葉を紡いで、

調子に乗って、

その道が自分にあうかどうか、

後先も考えずに生きようとした末の

出来事だった。

別の言い方をすれば、

家族を失ってまでそんなものは

欲しくなかった、ということだった。

 

人に起こる出来事に無駄はない。

起こるべくして起こっている。

家族がおかしくなった、

離散した、

崩れた、

というなら、

どこかに無理があった、

無理に耐えられない人がいた、

無理に気付かなかった、

そういうことだと思う。

その中で、

高見を目指したこと、

ある所へ行きついたこと、

得たもの、

それらには嘘はないし、

無駄などなかったと思う。

 

親への共感は、

いくつかのステップを経て

世の中への共感にもつながった。

だから自分が得た何かがあるなら、

それを、離散した、崩れた

一人一人のいるところへ行って、

還元していけばいい。

それを、

上った(と勘違いしている)場所から、

戻るはしごを外された、というのは

子供のままでいたい、という感情を

認められないが故の感覚だ。

 

ほんとは上ったり下りたりするものではない。

ただ、その時必要と思った場所に行き、

そこで道に迷った、

一歩俯瞰してみれば、

それだけのことだった。

同時に、

あの彷徨った、

ある種独りよがりの若造だった自分を

限りなく愛おしく感じる。

独りよがりの時代を通らない人はまずいない。

そこで自分や他者とつながることの恵を知る。

しかし、時にそれを許されないまま大人になり、

やがて自分を見失う人も少なくない。

そういう意味では、

あれほど追い込まれて混乱した中で、

よくそこまで独りになって

生きてきたものだと思う。

そこで身に着けた感覚は

今も役立つ財産になっている。

それは、

醜さとか悪意とか惨めさなどで苦しむ自分を

無視することなく、

受け入れ共感する中で

初めて認められる想いだ。

これからを自分が納得して生きるための

大切な原動力になる。

 

そう感じられるようになったとき、

梯子と高低差で表現された世界は

自分の歪み生み出したと

とても遅まきながら知った。

自分に起こることに、

ほんとうに無駄はないものだと

しみじみ感じている。

 

ー今回の表紙画像ー

『遊水地より空を見上げる2』

空を遮るものがない場所はいいな。