自分再生の物語

日々の棚卸

 

私たちは、物語の中に生きています。

いえ、ほんとです。

物語という言葉がピンと来なければ、

自分史、家族史の中に生きている、

と言い換えてもいい。

 

私は、父と母の間に生まれて、

×十年の人生を生きてきました。

それはその通りです。

実際には、その上に、あるいはその間に、

見聞きし、感じ、学び、体得し、笑い、

泣き、怒り、喜び、叫び、走り、泳ぎ、

喧嘩し、話し、恋をし、気合を入れ、

努力し、希望を持ち、絶望してきた

と思います。

それは、育つ中で身に着け、

植え付けられた感性を元になされたことで、

それらを覚えているかどうかはともかく、

無意識のうちに体と心と脳に刻み付けられ、

それが今の私たちの

感じ方、考え方、ものの見方、選択の基準

になっている。

歳を取るほどに積み重なっていく

それらをして、

物語、自分史と言っています。

 

今が生きづらいとき、

育成歴、親との関係を振り返ります。

社会人になって行き詰ったとき、

自分史を見つめなおすと、

そこに生きづらさの原因となるような

親の言動を見出し、理由付けとします。

「あー、こんなことをされた」

「あんなことを言われた」

「父は、母はこんなふうになってしまっている……」

「だから今の自分はこんなに行き詰っていて苦しいんだ」

そして、うまくいかないのは仕方がない、

となったり、

親を含めた過去の影響者に

責め苦をもたらそうと画策する人まで

いたりします。

それほどに、莫大な影響を与えてきた人々、

言い換えればそこまで愛着を持っていた

ということで、

簡単に、はいそうですか、と

済ますわけにもいかない、

という心境は理解できます。

 

これが正しいか間違っているかは問いません。

しかし、ある一時期、

原因を知ることに時間を傾けたとしても、

それ以上のことは、

自分のこれからを生きていく上で、

時間の浪費だと申し上げておきます。

それでも実行する方は、

そのことをしっかりと認識したうえで、

行ってください。

人は無駄なことはしないという意味からすれば、

何らかの学びはもたらすでしょうが、

だからやった方がいい、

という類のものではありません。

 

認めたくないかもしれませんが、

誰しも一度はこの状況に陥ります。

そして、

自分の物語の『破綻』を感じ取ります。

 

もうだめだ、

もう終わった、

あるいはそこまでいかなくとも、

物事の基準がグダグダに崩れた日常を生き、

何が正しくて何が間違っているかの

自分なりの判断もつかず、

自分を信用できなくなってしまい、

混乱してしまう。

それもまた家族史的にもたらされたもので、

親がそうであったように

子供である自分もそうなっている、

と捉えてしまう方もいます。

 

与えられた物語を再構築する時に来ています。

自分を再生する物語です。

 

言い換えれば、

言い聞かせられ、

用意され、

その通りに生きてきた自分の学びを、

恐れることなく自分の視点から

見つめなおすことです。

 

私たちには必ず親がいます。

祖父母がいます。

身近であるか、

疎遠か、

実は最初から全く見知らぬ人

という場合もありますが、

そうやって連綿と血をつないできて

私たちが生きている。

10世代前には千人以上、

20世代前なら百万人、

30世代前になると10億人の男女が

かかわっていることになります。

1世代を25年で計算すると、

10世代は250年、

20世代は500年。

なんだか凄い数字ですよね。

実はほとんどの日本人が

自分とかかわってるんじゃないのか、

そう思えると、不思議な気がします。

 

そうやって続いてきた命は、

昔なら、

身分や収入や寿命や人のつながりや技術

といった限界から、

与えられた教育を守っていくことで

受け継がれていくわけですが、

少なくとも今はそれだけではない

と私は思うのです。

成人した人の生き方、感じ方が

子供時代に受けたことに大きく影響することが

明確になるにつれ、

虐待というワードも日常的にみられるように

なったわけですが、

そこに留まっている限り、

私たちは被虐待者のままです。

ここでよく使っている、

被害者のままだ、

ということです。

実際、

あからさそうまに虐待をされた方もいれば、

どこかで思い込んでいる方も

いるでしょうが、

問題はそこではなくて、

そういった自分の物語に

住み着いたままでいることです。

 

私たちが生きづらさを見つめなおし、

行き詰まり感と自ら対峙し、

新しく自分の物語を構築しなおすことは、

私たちのみならず、

身近な親をはじめとして

影響を与えた人々にとっても

新しい人生を見せることになります。

自分再生の物語は、

外側から自分を愛してもらうことに固執せず

過去の自分を今の自分が遠くから愛でるのでもなく、

見失った自分を受け入れ、

時間も場所も超えていくつもある自分を感じ取り、

一体化した自分の内側から湧き上がるものを

感じることが土台であり骨子になります。

 

これができているかどうかの判断は

過去の見方を知るとわかります。

生きづらさを感じている方が、

過去をつらく惨めなものと捉え続けているか、

それとも

実はこんな楽しいこと、幸せなこと、

没頭したこと、喜んだこと、集中したことがあった、

今も皮膚感覚に宿っていて、

これからを生きる力と感じられるかどうかです。

どちらがどうかは、

お話しするまでもありません。

 

国の歴史、地域の歴史なども同じですが、

一人一人が自分の歴史を見つめなおし、

与えられただけではなく、

そこから感じ取り、見出した自分そのものが

今も息づいている現実を感じられ、

それがずっと続いて自分を勇気づけている

と再構築できるようになったとき、

私は、家族は、壮大なパワーを得ます。

生きる力、継続する力です。

 

ー今回の表紙画像ー

『川の土手の三日月』

先月に続いて里帰りした折、昔よく遊んだ川の岸辺より。