あざ笑うな!”滑稽”だけど。

日々の棚卸

 

人生がスムースにいってたり、

ある程度自分のペースで生きられたり、

あるいはうまくいかない人生をも

受け入れて生きている人からすると、

何かにこだわって、

傷ついて、

辛い思いをして、

べそをかいて、

腹を立てて、

自分や他人を攻撃しては

また痛い目にあって、

…なんていうことをやっている人のことが、

とても”滑稽”に見えることがあります。

 

こう書くと誤解を受けてしまいますが、

私はかつて自分で自分を

愚かで”滑稽”だと見ていたし、

今はそこから出たのではなくて、

そんなところに今もいる自分を

私自身として理解しているので、

“滑稽”に見えながら、

心底愛おしくて仕方がありません。

そんな自分なくして今の自分はないし、

それは私が親から受け継いだ、

決して格好良くもないあり方ですが、

その道を通ったが故に

そのことに気づくことができたことで、

それをこのようにお話しすることができ、

他の方に伝わった時には

また心の平安を得ることができる方が

増えることで、

無駄ではなかったと感じたりするのです。

 

そんな私の”滑稽”な場面。

きっと多くの方が同じような行動をした

経験があると思うので、

気を悪くしたら、あらかじめ

“ごめんなさい”。

 

・堂々巡りの思考とともに、ひたすら街を歩いた

・悔しさに心を乱されて、一晩眠れなかった

・抑うつにしばらく寝込んだ

 

……だから何?

そう感じた人、どのくらいいますか?

この程度の滑稽な行動は、

まだ、いくらでも上げられるます。

繰り返しになりますが、

すべて自分の一部で、

私の分身である大切な私の一部でも

あることだけは事実です。

 

そしてそんな人間を、

時に、揶揄し、あざ笑い、ネタに取り上げる、

テレビやSNS、漫画や映画など

様々なメディアがあります。

そこで話されたり語られたりすることを

見聞きすることで、

昔はよく傷ついたりしたこともあります。

誰も、私自身のことを言っているわけではないので、

勝手にダブらせて

勝手に傷ついていたんですね。

 

でも、そんな話を取り上げる人の中には、

自分が過去にやってきたことを、

先に私の例で挙げたように

愛おしく身近に感じ、

その上で笑いに取り上げている方もいます。

自分が自分の行為を

“滑稽”にみられるようになったときに、

私はそう気づきました。

 

そこに傷つくこと、

できれば見直した方がいい。

そんなこと言われても

傷つくもんは傷つくんだ、と

言われそうですが、

その上で、

傷つく自分を変えていきましょうと

あえて申し上げておきます。

自分ではない、他者の感想・感覚は

自分が自分を尊重し、大切にすることを

実行するほどに、

他者の感想・感覚として

自らが傷つくことなく、

尊重できるようになります。

 

誰がその行為を、

笑おうが、

揶揄しようが、

その感想を述べる人々の人生は

あなたの人生ではありません。

ただ、ひたすらに

自分が行ってきた自分の行為に、

寄り添ってあげてください。

すると、いつか必ず、

切なく愛おしさに包まれた感情を伴って、

笑ってしまえる時が来ます。

 

私たちは、“滑稽”な存在です。

表題は、この言葉と、あざ笑う、という表現を

対にしてあらわしました。

自分も含めて、人をあざ笑うような

侮蔑的な笑い(嘲笑)は避けたいけれど、

自分も人も皆、

真剣になるほどに、

どこかユーモラスな存在でもあります。

他者のそんな状況に気づくと、

行き詰まり、生きづらく感じている自分を

どこかユーモラスに見ることができるような

そんな発想が身についてきます。

そこに一つの、生きづらさを打破するような

新しい突破口が見えてきます。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『街の夕景と富士山』

富士山が見えた。とっても小さいけど。