家族を信じる物語

日々の棚卸

 

サザエさんって、

1960年代からテレビ放映が

続いているんですね。

子供の頃に見たきり、

随分見ていませんが、

それにしても長く続いているんだな、

と感心します。

平均視聴率もべらぼうに高い

わけではないけれど、

ざっとググっても10%前後はあるようで、

私たち(?)日本人には

人気がある作品なんだな、

とあらためて思います。

 

核家族どころか、

シングルペアレントの家が増えている中、

三世代家族の雰囲気を知っている人は、

間違いなく年々減っているはずですが、

それでも少なくない一定数の人が

この番組を視聴するということは、

そもそもがテレビをつけておくという

文化が出来上がっているにしても、

そこにチャンネルを合わせるという意味では

やっぱり視聴者を引き付ける

何かがあるのでしょう。

引き付ける何かといっても、

特別なワクワクするような楽しみとか

面白さというわけではなく、

実は多くの方が何となく感じているように、

残酷さとか深刻さに取り込まれることなく、

さりげない日常の中で繰り広げられ、

続いていくことを前提とした

親子や夫婦や隣近所や会社や学校の

人間模様をディスプレイに映しておきたい、

ということのような気がします。

NHKの朝のテレビ小説とも

通じるかもしれませんね。

 

普段、私たちは家族というものを、

あって当たり前だと思い込んでいます。

上述した通り、100年前なら

祖父母と父母と子供の三世帯からなる、

サザエさんのような家族が主流だったろうし、

今は父母と子供一人か二人の核家族、

あるいは子供のいない夫婦のみの家族

シングルペアレントが主流です。

 

この、家族という存在、

いったい何のためにあるのでしょう。

私は原家族の離散という時間を

経験しているため、

このことに悶々と悩んでいた時期があります。

家族とは何だろう、と。

 

有史以前、

既に家族という存在があったことは、

精神科医の報告以外にも、

生物学者や霊長類の研究者などによる

研究結果にでています。

家族とは、

当時まだ他の哺乳類と比較して、

立場的に弱かった人類が、

互いを守りあうために

身を寄せ合って生きるべく、

存在したと考えていたけれど、

実態はといえば、

どうもそれだけが理由では

なかったようです。

 

私たちが家族の中で育むものとは、

生物学的な肉体であり、

自己の存在の肯定性であり、

人の中で生きていく感覚であり、

バランスです。

表現によっては他にもあるでしょうが、

ともかくそこには、

理屈というかロジックだけでは推し量れない、

感情とか霊性(スピリチュアリティ)、

愛着といった

おそらく私たち人間と、

一部はほんの少しの哺乳動物だけが

持ち合わせている、

そして私たちを人間たらしめるために

必要な要素が介在しています。

これらの要素を私たち一人ひとりが

自発的に信じて生きるためには、

オギャーと生まれて育つ中で、

私たちが生きていること、

私たちがそこにいること、

私たちがこれからもあること、

そういったことを内在化させるための

物語が欠かせません。

この『物語』を与えるのが、

家族というものの役割となるわけです。

 

家族とは、

性交の場であり、

子育ての場だ、

と某精神科医が言っていたのを

聞いたことがあります。

大人だけであれば、

カップルが成立したところで

別に家族という形態をとる必要はない、と。

だとすれば、家族というのは確かに

子供のためにあることになります。

その子供が

家族、親を信じられなくなるのはつらい。

最も大切な安全を保つための

安寧の場所を失うから……

ではなくて、

一つの信じていた物語が

崩れてしまうからです。

物語が崩れるということは、

物語を介して理解している

他者や世の中、

そして何より自分自身をも

信じられなくなることになります。

 

以下の話は。

決して褒められたものではないし、

個人としても推奨はしませんが、

子供に殴る蹴るの躾をして、

それでも子供が公私にわたって

問題なく生きられる場合が

昔からあります。

これは、躾をした親の側が、

子供が生まれた時から

社会人になった後も含めて、

一貫した態度で接してきていて、

しかも親自身は、日常生活も

自分や人との関係も崩れていない、

夫婦としては、

まあ衝突しつつもずっと一緒で、

なんとか人並みにやっている

という場合にあるケースで、

一言でいえば、

彼・彼女にとっての家族の物語が

崩れていないのです。

もっとも、私たちの感情と体は、

そんな暴力的なことを常識として、

自分と接し続けられるほど鈍感ではないし、

逆に言えば、

そういう生き方をしながら、

自分や人と接し続けられる人というのも

そうそういないように思います。

 

人のつながりは完璧じゃないし、

そうであればこそ、

家族の物語が壊れることだって

もちろんあるでしょう。

完璧ではない人間が作る家族とは、

どうあがいたところで不完全な存在です。

私たちはその中で、

愛着を深く感じ、

物語を宿し、

私という一人の人間として、

固有の人生を歩みます。

その底流には、常に物語がある。

 

私のことについていえば、

これまでのブログでも折に触れて

書いてきたように、

家族が離散したり、

父が自殺したり、と

それまで信じていた物語が

失われてしまったと感じていた間、

ずっと地べたに張り付くような

呼吸することさえ苦しい時間を

長くながく続けていました。

それでも、

死を選択しなかった理由については

別の機会に譲りますが、

その状況が好転したのは、

自分を受け入れ、その中に父母や妹の

物語の存在をも受け入れ、

家族がずっとあると思い込んでいた頃の

物語を含めた、

もう一つ上位の物語を内在化するようになった

頃からでしょうか。

そこには当然ながら、

日々の行動や考え方に対する

試行錯誤の時間が必要でしたが、

それは苦しんでいる自分を

救うことでもあったので

多くの方の助けを受けながら、

何とか乗り越えることができました。

信じていた物語が崩れてしまったことは

残念だし哀しいですが、

それを信じて生きていた自分まで

否定したり、

批判したり、

蔑んだりする必要は

かけらもありません。

それを信じた自分がいたのは事実で、

今だってそんな自分を信じることはできます。

信じた自分がいたからこそ、

こうやって今もまだ自分として

生きているのです。

きちんと自分の人生を背負っているのです。

そう感じられた時、

それまでの物語を受けて紡がれる

新しい物語が

ぼんやりと胸の内に

感じられるようになったことを

覚えています。

 

今生きづらさを感じて、

立ち止まっているなら、

そして、打つ手なしと感じて、

途方に暮れていたり、

抑うつ的になっているのであれば、

もう如何ともしがたいと頽れているなら、

あなたの中にある、

あなたの中にあった、

家族の物語がどんなものか、

見直してみてください。

ただしその時、信じた自分を、

崩れてしまった物語と一緒に

葬り去らないでくださいね。

 

ー今回の表紙画像ー

『本日の夕景 ~ 町はずれの川べりより』