働くということの意味というか感じ方は
人によって異なります。
生きがいを求める人。
家族のため、生活のために働く人。
とにかく当座のお金が欲しい人。
働いていないと苦しい人。
ただただひたすらに仕方なく働く人。
多くの人は心のどこかに
義務的な感覚、
100%ハッピーとは言い難い感覚を抱えながら、
働いているという意味では、
多くの人に当てはまるのかなと思います。
そんな働き方を、
少しでも納得いく、
多少なりとも楽しむことができる、
根っこの部分ではやりがいを感じる、
ようにすることができれば、
生きることに“張り”が
出てきますよね。
その昔、就職して間もない若かりし頃、
課長さんの一人が私たち新人に向けて
次のように言いました。
「夢をもたにゃいかん。
“近頃の若いもん”は、
仕事で何を実現したいか、
ってことを全く持ってなくて、
ただ社長になりたいとか出世とか言っとる」
といった類のご発言でした。
当時、自堕落な不良社員だった私は、
(サラリーマンやってて夢もくそもあるか)
と腹を立てながら、
その言葉を聞いていました。
今にして思えば不遜の至り極まれり、
せっかく、場を与えてもらった
状況に対して、
こうやって表現するのもお恥ずかしい限りの
残念で失礼な態度でしたね。
出世やら何やらが
夢とかやりがいなどとセットではなく
単独の目的になると、
これはもうただの競争に特化された
世界の話に帰結してしまいます。
競うこと、ある種の自由競争は、
人が不遜に陥らないための
一つの処方箋でもあると思うけれど、
競争のための競争になると
手段の目的化になってしまいます。
これはつらい。
特に私のようなマイペース型にとっては。
今世紀初めに亡くなられた
マネジメントの大家と言われる、
知の巨人、ピータードラッカー氏は
レンガ職人を例に
「教会を作っていると感じられるか」
と言っていました。
働く内容が、
マネジメントか、
経営か、
現場作業か、
スタッフか、
は問われていません。
自分で選択できる場合もあるだろうし、
流れやその時々の縁みたいなものだって
あると思います。
しかし、
そこに自分なりに描いた
夢なり想いみたいなものがあって初めて、
仕事がやりがいや喜びという、
自分に即した存在として機能するし、
競争というつらい行為にも
また意味を見出すことができるというのは
少なくとも自分が納得いく
働き方をする一つの在り方でしょう。
この解釈を反対側から組み立てると、
夢を持てないような生き方をしていて、
幸せを求めたって無理だ、ということも
言えるのかもしれません。
夢と言っても、
誰もが羨む壮大なスケールの絵巻物ではなく
本当にささやかな、
等身大の自分が欲する
日常の一コマでいいと思うのです。
もっとも、
この“夢”とか“想い”を
見つけることがなかなかできなくて
私たち皆が苦労していることは、
あちこちで言われていること。
ほんと、なかなかみつからないですよね。
なぜかと考えてみると、
それは机上の空論から導くには限界があって、
試して試行錯誤してまた試してといった、
一人ひとりにとってのトライアルとなる
行動と結果を経験する中で
見つかっていくものだからです。
面白さ、わくわく、楽しさ、平安、
ずっとそこに居たい感じ、など
求めることがわかれば、
表現は何でもいい。
ただ、頭で考えたりしているだけでは
見えづらいことであるのは確かです。
これまでにも、そんなことを繰り返し
述べているのですが、
自分を振り返れば、
最初は腰が重かったり、
悪い結果を想像しては悪態をついたり、
お金や時間が内政にしたりして、
一つの行動をして結果を得るのに、
随分時間がかかったりするかもしれません。
でも、まずは初めの一歩。
動き出さなければ、
何も始まりません。
ー今回の表紙画像ー
『川べりの道』
夏は青く茂っていた葉がすっかり落ちている。
冬ですね。
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