一挙手一投足に注目して人が考えていることを憶測する愚

日々の棚卸

私たちは人の本心を

言葉や振舞いなどの表現から

知ろうとします。

何を言ったか、

どんな表情だったか、

口調は?

身振り手振りは?

その人の自分以外の他者との関係は?

実際の行動は?

もしかして陰口を言っていたりする?

よくよく考えればそんなことは

そうそうできることとは限らないと

思うはずですが、

人の関係に悩んでいる人ほど

その傾向が強いように思います。

 

これは裏を返せば、

自分がそうするとき、

つまり、

そんな表情をするとき、

そんな口調で話すとき、

そんな身振り手振りをするとき、

自分が他者と話をするとき、

何か行動するとき、

人によっては陰口を言うとき、

何を考えていたり思ったりしているか、を

自分の中に見つけ出そうと

することでもあります。

 

書いていても思うけど、

これ、本当に不毛です。

そこに神経質になって

あるかどうかもわからない、

相手の悪意を探し出そうとするための

行為のようなもの。

 

ある人にとって、

心から腹を抱えて笑うような出来事が、

別のある人にとっては

全く面白くないけれども

周囲に迎合するための愛想笑いだったりします。

ある人にとっては賞賛の言葉が、

別のある人にとっては嫌みに聞こえる。

ある人にとっては叱られた怒鳴り声が

残酷に聞こえ、

時にトラウマとなることさえありますが、

別のある人にとっては

多大な期待の表れに感じられたりします。

軽やかなうなずきは、

人によっては適当にあしらわれて

バカにされたように感じる。

ことに言葉少ない人の在り方は、

人によっては見守られた感じがする一方で、

別の人によっては無視されたように感じる。

ある人にとっての親切は、

別のある人にとっては余計なお世話や

いらぬおせっかいで済めばいいけれど、

悪意ある働きかけととられることもある。

カレーライスを混ぜてから出すか、

そのまま出すかというのは、

笑い話ですが、

しかし突き詰めればそんなこと。

余談ですが、カレーライスの話は

テレビの中でのことかと思いきや、

そうでもないようです。

その昔、会社の先輩夫婦が

そのことで大喧嘩したとか。

私はカレールーをかけたら

そのまま出してほしいけど、

そうでないところもあるんだそうです…。

 

父母の衝突が一線を越えて、

互いの存在そのものを罵りだすところまで

エスカレートするまでには、

いくつもの解釈の齟齬があったのだと

今ならわかります。

もちろんそれが全てではないし、

解釈の裏側にはそれぞれが抱える

自己評価の低さもあったでしょう。

いずれにしても、

言葉にせよ、行動にせよ、

自分に何かを与えてもらうことを、

至上の価値として相手を見てしまうと、

そこに見合わないと感じる表現や

負の解釈をしてしまうような表現を

そのまま自分の見方の中で取り入れ、

相手の中に悪意を見出すようになります。

ほんとはそれは、

見出す側の中にある

凝り固まった見方、つまり固定観念に基づく

悪意の投影なのですが。

 

目の前に現れたこと、

人の表現、

その解釈、

どれもが自分の中にあるものを映し出している、

そう考えると、物事の見方が変わってきます。

たとえ投影されたものであっても、

自分の一部とみて、

無理に受け入れる必要はなくて、

どうしても耐えられなければ

その場を離れればいい。

ただ、それまで自分が

家庭環境の中で培ってきたモノの見方が

ある一側面的なものであると

認識するようになると、

悪意が不要になっていきます。

そもそも悪意というのは、

自分の中の活動のエネルギーが

ある方向に歪んで出てきたものです。

 

自分をもう一段上から俯瞰することを

少しずつ磨いていきましょう。

偉そうに(?)お話しして今いましたが、

かくいう私自身もまだまだ、

その途上の人間です。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『川の風景』

晴天の寒空だったけど、川べりを散歩する人がいたり、サッカーやってたり、皆さん元気でした。