仕事も人の関係も自分の内面も満たされるように、怒りの感情を飼いならそう

日々の棚卸

 

思うように働くことができない、

思うように人の関係が築けない、

思うように仕事を選択することができない。

いや、思うようになんて贅沢は言わない、

せめて今のこの

会社に通うことが、

働くことが、

職場のコミュニケーションが

辛い日々を変えたい。

 

…でも、現実には、

やりたいことは見つからず、

愛着の持てることも見つからず、

無理やり積極性を出して疲弊するか、

その反対に腰が引けて叱られてばかり、

今自分が置かれた状況に

焦りと不平が募ってばかりいる…。

 

本心から自分が望む働き方、

やりがいのある仕事が何であるか、

誰とどのようにつながりたいのか、

本当はどう生きていきたいのか、

そういったことを理解するために、

実践することを、以下のように

文字にしてお伝えしています。

 

自分と真摯に向き合い、

他人が敬遠しがちな自分を

心から大切に受け入れ、

自分だけの世界である内面を

どこまでも旅し、

未来の標となる想いや

拠り所となる心の原風景を

心の海の中から形作ることは

自らを勇気づけ、

自らが描いた求める未来に向けて

行動に駆り立てる力を

湧きだしてくれます、と。

 

…が。

 

ときに、どうしても

それができないという人がいます。

特定の感情と、

そこから派生した行動に

囚われてしまっているみたいです。

 

どんなことに囚われているかというと、

仏教の三毒の一つ、

“貪瞋痴”の“瞋”に相当するもの

“怒り”の感情です。

その感情は、

他人や会社や世の中に向けられることも

多々ありますが、

それを含めて最後は、

自分に向けた感情です。

 

この毒への対応を意識がけることで、

仕事がスムーズに進むようになり、

あるいは自分の居場所でないことを悟り、

新しい世界を求めるようになり、

今の自分で充分であることを感じて、

人の関係の緊張が減り、

何より自分自身の心が楽になります。

 

仏教、宗教というものに、

その昔、私はアレルギーというか

非常に胡散臭い感じを持っていたので、

そういった話を聞いても

右から左にスルーしていた時期がありました。

しかし、その根底に

自分が原家族の中で身に着けた、

歪んだ見方を引きずっていて、

それが偏見となってあらわれていたことに

気づかされてから、

ようやく一度試してみたという

経緯があります。

 

怒りは、単なる怒りというより

憎しみ、恨み、蔑み、妬み、侮りですね。

怒りには相手と会話が成立し、

キャッチボールができるから

主張を強く行う場合もあるのですが、

ここではそういう意味よりも、

自分以外を悪と決めつけ、

心と時には行動の暴走を許す

感情の持ち方のことです。

 

ちなみに、三毒の他の二つ、貪と痴は

読んで字のごとし。

貪は貪り、際限のない欲望のことです。

欲望も、決して悪いことではないのですが、

ここでは依存症のように、

暴走した飽くなき渇望のことですね。

モノにしても、人の称賛にしてもそうですが、

そこに何かを求めること自体の中にある狂気を

このような形で表現して、

たしなめています。

 

痴は無知であること、知恵がないこと。

これだけ聞くと、どうせアホだよ、と

妙に腹立たしい感じもしますが、

実際には、非常に逆説的な使われ方を

していると思います。

知識がないこと、というより、

自分が無知であることをわきまえないこと、

少なくとも十分な知を得ていないにもかかわらず、

あたかも何でもよく知っているかのように振舞うこと、

無知の知を理解していないこと、

と私は捉えています。

 

古くから人々の生活に根差す

仏教の教えの中に

三毒の悪弊が人生を蝕むと

説かれているのだから、

その一つである怒りが

仕事や人の関係をおかしくするのは

“当たり前”なんですよね。

ほんと、この感情は誰もが

「そうはいってもね」

といいたくなるくらい

扱いが難しい。

自分の常識と他人の常識が異なり、

職場やコミュニティごとに文化があり、

自分のコンプレックスや

自分のコンディションによっても、

どこでどんな形で怒りを感じるかは

人それぞれですから。

 

怒りを含めて、

感情は無理に押さえ込むのは良くないけれど、

知ることによって、

暴れまわるはずのその感情が

静かに収まることがあると思います。

なぜなら、

それらを暴れまわらせておくことは

自分にとってもいいことが何もないことを

もう一人の自分が感じ取って、

その感情を冷静になだめるように扱う

からかもしれません。

 

標題で私は、『怒りを飼いならす』

という表現をとりました。

怒りはなかったことにはできないし、

なかったことにしてしまうと、

とんでもないところから出てくるから

なんとしてもそれは避けた方がいい。

怒りを感じる自分をきちんとわかって

その怒りが自分の何に根差していて

ホントは自分がどうであればよかったのか、

そういったことがわかるともっといい。

ここにのみ込まれてしまうと、

最初に書いたように

自分の本音を知るために

受け入れる自分と出会うことができない、

受け入れる自分を見失ってしまう

からです。

 

怒りを力に転嫁する方法、

我欲を想いに変えていく方法は

あるものですが、

そのためにはまず、

怒りに荒れ狂った勢いで

正当化してしまっている感情に

気づくことが必要です。

気づくことは難しくありませんし、

それが自分にもたらす様々な害を知れば

後は飼いならしていくだけです。

 

身に着けばそんなに難しいことではありません。

そしてそれが収まれば、

必然的に出会うべき自分が見つかります。

後から振り返って、

自分の変化がおこるときです。

 

ー今回の表紙画像ー

『秋のうろこ雲?‗2』

前回に続いて。我ながら気に入っていたみたいだ。