人生は不平等。
人生は平等。
どちらでしょう。
私たち一人一人の人生にはそれぞれ、
他の人には起こりえないような
不幸もあればラッキーなことも
起こります。
見方を変えることで、
不幸であるはずのことが
実はラッキーだったり
あるいはその反対だったり、
ということです。
人間万事塞翁が馬とは
よく言ったものですよね。
自分に起こったこと、
家族に起こったこと、
職場で起こったこと、
人の関係のこと、
体のこと、
心のこと
どれをとっても、
自分以外の誰かと比較することで、
自分のみに起こったことが、
不公平だと感じることは多々あり、
自分が不幸のどん底に
喘いでいるときなんて、
そこではもう、
何もかもが
不幸の故の出来事に感じて
体から力抜けていくような
何もかもを放り出して
しまいたくなるような
自分が生きていてはいけないと
感じてしまうような感覚に
全てが覆いつくされてしまった
気がするでしょう。
妻(夫)との離婚、
家族の離散、
失業や勤め先の倒産、
仲間外れ、
恋人との別れ、
大切な人の死、
肉親との絶縁、
人生への絶望…。
私自身はと言えば、
原家族が離散したり、
父親の自死を含めて
家族の誰もが壊れかけ、
その度に自分を責め、
落ち込み、荒れ果て、
周囲の人々へも迷惑をかけ、
仕事や人の関係が
ガタガタに崩れかけたことが
ありました。
不平等だ。
不公平だ。
不幸だ。
正直に言えば、
そう思っていました。
憤り、
怒り、
蔑み、
そんな感情を抱え、
その裏側に、
既に社会人になっていた身で、
失った何かを
必死に求める子供のような
叫びがあったのだなと
今ならわかります。
先述のとおり、
日々感情は荒れ狂い、
混乱し、
夜は寝付けず、
誰かに何かを求めようにも
何をどう求めたらよいのかさえわからない。
そんな日々の連続が
ますます自分を追い詰め、
身の置き場も
心の居場所も
感じられなくなるという
悪循環を招いていました。
自分の内側にある何かを
信じることができず、
自分を押し殺して生きて、
それがさらに自分を追い込むという
目も当てられない悪循環。
ほんとうは、何かがおかしい、
そう思っても
何がおかしいのか
わからなかった。
私の場合、
自分がおかれたそんな状況こそが、
働くこと、
ひいては、
生きること
に対して
大きく考えを変えるための
きっかけになりました。
勤めていた会社が悪いわけじゃない。
勤め先の上司や同僚が
とりわけ悪人というわけでもない。
やっている内容はきっと
世の中に必要だからこそ、
利益が発生しているし、
やりがいを感じている人もいる。
それでも、こと自分自身に限って言えば、
もうこれ以上怒鳴られたくない、
もうこれ以上やりたくない、
もうこれ以上指示されたくない、
もうこれ以上…。
生活・お金のためだけに
働くこと、生きることに
なってしまっていたことに
どこかで辟易していました。
自分の生き方、働き方を
根本から見直したのが、その時です。
一役買ってくれたのが
心理学やカウンセリングの
知識と知恵でした。
少なくとも私にとっては
学問というよりも
皮膚感覚、そして
原家族に起こった出来事
という実体験に基づいた
生きる指標となるものでした。
何かがおかしい、
でもそれは、
自分という存在がおかしいのではなくて、
自分がやってきたこと自体が
間違っているのではなくて、
ある時を境に、
自分や世界に対する
受け止め方が変わってしまったという、
自分の世界観の問題だったということに
気づかされたのです。
体の中を電流が走る、
というのはこういうことを
言うのでしょうか。
心理の世界、
カウンセリング、
精神医療の世界に浸ることは、
クライアントの立場であれ、
相談を受ける側の立場であれ、
一つの真実を知ることになります。
それはとても多くの人が、
外からは想像もしえない
哀しみや苦しさを抱えて
生きているという現実です。
そう感じた日のことを、
昨日のことのように
覚えています。
“我こそは被害者なり、
我こそは不幸の権化なり“
誰だって、
自分のことをそう感じたくて
生きてきたわけではないはずです。
ですから、
心のどこかでそんなところに
自分を位置付けていた世界は、
自分を俯瞰して見ることが
できるようになるにつれ、
変容せざるを得なくなります。
自分を不幸の主人公と
位置付けることが
意味をなさなくなくなってくる、
というか、
そう言う自分の見方こそが、
自分をその位置に
固定してしまっていることが
身にしみてわかるようになる。
自分はそんなことないという方、
いつも誰か、何かに
怒っていないでしょうか。
それは…そういうことでは?
ともかくも、そういう洞察が進むと、
それまで自分が漠然と考えていたこと、
不幸と捉えていたことを、
運命論的な解釈や、
幸せは自分以外の誰かによって
与えられて当然という心持ちにも
変化が生じます。
自分が自分にとって生きやすい人生を
生きていくためには
どうしたらよいか、と
自分軸に引き寄せて
考えるようになるのです。
これは、
働き方や仕事の選択の基準に
物凄く大きな影響を及ぼします。
というより、
ここを切り口として
働き方を決めること、
生きていこうとする姿勢は
自分に寄り添った生き方となり、
そこにあらわれる、
もう一人の自分である誰かを
助けること、
助け続けることにが、
そのまま自分を救うこととなって
やっつけ仕事などとは本質を異にする
やりがいへとつながっていきます。
親、会社、上司、過去、しがらみ。
うまくいかない理由をあげれば
自分の外側にいくらでも
論(あげつら)うことはできます。
そして、そのことを否定する
必要なんてありません。
それはそれで、
その時の自分にとっては
一つの真実だったのですから。
ただ、うまくいかなかったこと、
その時々の言動は、
自分が選択したものでもあって、
世界なんてこんなものだよという、
無意識的な
振る舞いやオーラとなって
自分自身が発している生き方が
結果となって跳ね返ってきたのも
一片の真実だと思うのです。
そうならざるを得ない不可抗力は、
もちろんあったと思います。
でも、それを変えていくことは
私たちならできます。
私たち苦しみを経験した者なら
できるのです。
どろりと歪んだ世界に浸らないこと。
そんな世界を察知したり、
アンテナが高くならないように、
心の中に取り入れるものを
変えていくこと。
出来事の見方・受け止め方を
変えていくこと。
そのために必要な
選択する力も、
その基準も、
自分の中に持っていると知ること。
そのためには、
自分が自分を知り、
選択を変えていくこと、
行動を起こし、継続すること、
そして、自分にとって
最適な世の中とのつながり方を
常に模索すること。
だからこそ
自分を受け入れ続けること、
過去を断罪しないこと。
自分が自分の根幹を信じた先に、
自分の想いを実現するような、
自分の好きなことをやるような、
誰かのためでなく
自分が望むことをして対価を得るような
そんな生き方、働き方を
自分自身と密に相談して、
導き出せるようになります。
ー今回の表紙画像ー
『町の夕景』
買い物帰り、車に乗り込もうとしたところで目に留まり、思わずパチリ。
最近のコメント