心の原風景。おそらく誰もが内に秘め、生きる力となっている心のエネルギーの源。
自分の幼少期はそんな悠長な状況ではなかった。家族はどうしようもない状態だった。悩みも苦しみもみんな親からぶつけられた。自分はいつも孤立していた…。そういう方々にも今まで生きてきたという事実こそが、無意識の中に根付いている可能性を示唆していると思います。
これまでにも何度か取り上げましたが、ここでもう一度触れておきたくて書いてみました。
原風景。
『人の心の奥にある原初の風景。 懐かしさの感情を伴うことが多い。 また実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。』 ~ Wikipedia「原風景」↓より
1.自分への隠し事
私たちは誰もが、無意識に自分に隠していることがあります。
隠しているというより、思い出さなくなっていると言った方がいいかもしれません。
内容は人によって様々であり、それ自体は問題ではありません。
ここでは便宜的に、隠している、と表現しておきます。
隠しているというのは、
無意識がベールをかぶせていること。
記憶の棚の奥深くにしまい込んでしまっていたこと。
目の前にあってもあえてスルーしていたこと。
そういった状態です。
それらはもしかしたら、もう二度と思い出したくないかもしれないこと…。
私たちは普段、意識で生きています。
というより、意識だけで生きていると思い込んでいます。
そんな私たちが、どうにも生きづらくて、どうしようもなく行き詰っているなら…。
もう一度、“その領域”に触れる必要があるかもしれません。
2.世間に居場所を感じられない自分
私たちは考える頭を持っています。
目の前に起こった出来事を、意識で分析することができる。
理はそれなりにつけることができて、だからなのか、つい、何事もわかってしまうような気になっていたりします。
例えば
仕事ができなくてつまらない私は、きっと周囲から馬鹿にされているに違いない。
明るく笑顔でいないと仲間外れにされる。
あんな意味不明の采配がまかり通ってしまうなら、この会社も先がないな。
そんな感じで、どこか批判的、否定的な方向に結論付けようとしてしまう。
その傾向は、学歴とも性別とも関係ありません。
有名な大学を出ていたり、
MBAを持っていたり、
大手企業に勤めていたり、
…しているのかどうかはわからないけれど、
とにかく、きっと頭脳明晰であろう方々が、
そうやって“論理的”に、“意識的”に、分析して、腹を立て、悲観し、何より自分自身を見失ってしまっている。
3.不明瞭なままの自分が生きづらさを募らせる
私たちは、意識で分析する、と言いました。
厳密には、頭(脳)と心(情動)と皮膚感覚を駆使して、行うわけです。
突然ですが、ここでちょっとパソコンの話をさせてください。
いえ、パソコンではなく、家電でもいいんですけどね。
日本の家庭に届く電気は通常100Vです。ご存知の通り。
あらゆる電気製品は、これを前提に作られています。パソコンもまたしかり。
では、もしこれが500Vだったら?
パソコンは一瞬で破壊されます。
反対に、これが50Vだったら?
今度は動きませんよね。
ではもしこれが、260V※だったら?
すぐには壊れないかもしれませんが、そのまま使い続けるうちに徐々におかしくなっていくでしょう。ある頃からは、操作に対する挙動がおかしくなり、最後は動かなくなってしまう。
※ほとんどのパソコンは、100~240Vが入力されることを想定した仕様になっています。知りたい方は、コンセントとパソコンをつなぐ間にあるアダプタの表示をご確認ください。
似た話をもう一つだけ。
古い家でなければ、マンションで蛇口から出るお湯は自動で温度調整できますよね。
マイコン(コンピュータ)付きのヒーターなどで、一瞬(ミリ秒、マイクロ秒)前の温度を測定して、設定された温度より高すぎれば冷やし、低すぎれば温めることを繰り返して、一定の温度を保つ仕組みになっています。
この仕組みもまた、電気で動きます。だから、供給される電圧が低すぎれば動かないし、高すぎれば動きがおかしくなる。壊れないまでも、おかしな挙動を示すようになる。もしかしたら、温度がどんどん上がり続けて、お湯が煮立ってしまうこともあるかもしれない。
私たちの脳や心にも、同じことが起こりえます。というより、程度の差はあれ全ての人に起こっていると言った方が正しいかもしれません。
私と言う存在は、生きてきた環境、積んだ経験、得られたものと得られなかったもの、目にした光景、耳にした声、そういった諸々を自分の中で咀嚼しなおして、感じ、考え、振舞い、形作られていきます。先に述べた、ネガティブな結論付けに走る傾向がある人なら、そこには同じように、その人のもともとの気質が、心の許容範囲を超えた環境とその受け止め方と合わさった結果と考えることもできます。この、許容量を超える程度がある方向に法的にもひどいとき、近年では虐待やネグレクト(放棄)と言う表現が使われたりするわけです。
私たちには、時間を超え、社会や経済の仕組みを超えて、根源的に必要なものがあります。その一つが自分とのつながりであり、家族を始めとする大切な人々とのつながりです。私たちが、働いて幾ばくかの金銭を得ることも、保険に入ることも、自家用車や家を購入することも、本来はそのためではないでしょうか。
しかし、つながりを保持する一手段であったはずのそういった生き方、働き方を、つながりを見失ったまま続けている本末転倒の状態が、冒頭の生きづらさ、行き詰まり感を助長しているとするなら、それは本来的な自分と世間に位置づけた自分との一体性を欠いたまま、社会の中を彷徨っていることに他なりません。これでは、生きることが苦しくなりもするでしょう。
この状態を一瞬で解決するのは難しいものの、確実に収束させ、生き生きとして生きることを取り戻す方法があると思うのです。
それが標題の『心の原風景を蘇らせる』ということです。
4.選択した人生を肯定して生きるために、心の原風景を蘇らせよう
どこにも居場所が感じられない自分が常態化していると、生まれてこの方ずっとそうだったという錯覚にとらわれてしまいがちです。前へ進む意欲は愚か、日常に自分を受け入れる気力さえ失われてしまいます。自分がそこにいて当然という感覚の喪失と、喪失したことに気づけないことが起こっています。
その時にはおそらく、感傷に浸ることもできずに自分を忌み嫌っていたり、自分をそんな環境下に置いていた親を恨んでいたり、その延長であることも気づかずに職場や人の関係に文句を言いながら、自ら変化することは考えないようになっているのではないでしょうか。これまで生きてきた世の中を十把一絡げに、胡散臭くて信用できないことばかりだったと解釈し、そこに生きていることに絶望していることもあるかもしれません。何もいいことなんてなかったし、今もまた何もいいことなんてない、だから、これからもいいことなんてあるはずがない、と。そんな状況で自分の居場所なんて得られるはずがないし、そこにいられるとも感じられない、と。
ここまで述べてきたことは、実は私も当事者として経験してきたことです。これに絡んで少しだけ私事をお話しさせてください。
とある冬の夜のこと。眠ることができずにベッドを抜け出し、ベランダから夜更けの町を見ていたときのことです。冷気が頬に刺さり、温もった体をゆっくりと締め付けてくる。ひんやりと、少しずつ侵入してくる外気の中に佇みながら、これと似たような感覚になったことを思い出しました。
小学生の頃、大晦日の夜のことです。遅くまで紅白歌合戦を見て、部屋に戻ろうとして、何を思ったか少しだけ外に出ようとしました。そっと玄関のドアを開けて外に出ると、夜更けの道路まで出て、侵入してくる冷気に体を震わせながら夜空を見上げました。とても寒くて、とても静かで、とても澄んだ匂いがして、目が覚めたら年が明けていて、家では特に好きでもないおせち料理が出て、ささやかなお年玉がもらえて、という、ただそれだけのシーンです。
その時のことを思い出した、と言うより、臨場性を伴って皮膚感覚に蘇ってきた。
そして、
「ああ、どこにも嘘なんてなかったんだ」
唐突にそう感じ、頭の中が、体中が、その想いで満たされていきました。
世の中とは、家族とは、胡散臭いとか、不実とか、そういったものだという思い込みを長く持ち続けてきたが故に、自分の存在自体の不明瞭さ、不確かさに悩みながら、いつしか自分とは所詮そんなものだと思い込むようになっていた自分が、その時、“そこ”に当たり前にいたのだ、と感じた瞬間でした。“そこ”にいることが当たり前であること自体が当たり前であって、当たり前であることが意識の俎上に上ることもない。家の中には父がいて、母がいて、家族があって、いがみ合いながら、傷つけあいながらではあっても、その関係はこれからもずっと続くものだと誰もが当然のように思っていて、その誰もが他の誰かを陥れようとしたり、騙そうとしていたわけじゃない。その後の一家の離散や自死といった哀しい出来事があったからといって、このシーンまで否定してしまう必要なんて全くない。あの頃は当たり前であることを信じていたし、その記憶が蘇ったなら今だって信じることができる。
そのことがあってからしばらく、本当に多くの“そこ”を思い出しました。
友人と夕暮れの川べりで釣り糸を垂れていたこと、夏休みの朝に宿題をしながら聞こえてきた高校野球の実況中継、台所で煮物を作る鍋の音、プールの帰り道のふわふわとした感触…。妹が生まれた頃のことや、家族で笑っていた数少ない光景さえ、脳裏によみがえってきました。
どんな時も、“そこ”にいることが当たり前の自分がいて、当たり前であることを意識する必要がないほど当たり前に“そこ”にいる。“そこ”は実は、ある特定の時間や場所ではなく、自分が今いるところだったのだと理解すると、世の中や周囲の歪みと自分の存在とは関係ないということに気づきます。
これらを心の原風景と呼ぶならば、これからは確固とした自分をもとに選択を繰り返して、生きていくことができる。
かつて、受け止めるには、少しばかり哀しすぎて、残酷すぎて、厳しすぎた現実が続いたために、どうしても自分を否定してしまいたかった。でも究極の行為を免れるためには、自分よりも世の中を否定していた方が都合がいい。そうやって今の自分が出来上がっていたことにも気づくはずです。そしてもう、そんな見方をする必要がないことにも。
自由に生きられるようになるために必要なこと、それが自分にとっての大切な想いを取り戻す心の原風景を蘇らせることだと思うのです。
過去と今のつながり方が、これからの生き方=未来を決めていくのなら、未来が良き方向に変化を始めるところにきているのではないでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『近所の公園の緑』
ひと月前は茶色だったのに。季節が進むのが早く感じるのは歳のせい?
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