がれきの割れ目の雑草が気になっていた頃

日々の棚卸

 

つながりたいのに、

つながれない、

つながれていない、

つながっている感覚がない。

 

友達がほしい、

恋人がほしい、

伴侶がほしい、

同僚がほしい、

仲間がほしい。

 

求めよ、さらば与えられん。

 

誰かを求める理由は人それぞれ。

誰かを求めることは、素敵だなと思います。

 

実際には、求めようとしても、

誰ともつながれなかったり、

得られたつもりが、

あまりに期待と異なっていたり…。

 

思考は駆け巡り、

やがて、

自分の言動を振り返っては際限なく、

どこが悪くて、

何がおかしくて、

どれが変だったのか、

と自分の中に悪者を探し出し…。

 

人と人がつながることは

頭で考えることではありません。

 

精神科医の齋藤学氏が、

「人と人は、船底に張り付いた藤壺のようにつながるものだ」

と言っています。

 

船底とフジツボの関係が

妥当な例えかどうかは置いておくとして、

人が人を避けない限り

どこかでつながるのは事実でしょう。

 

先日知人からうかがった、

引きこもりの子供を持つお母さんの言葉が

なんとなく頭の片隅に引っかかっていました。

 

「うちの子、ほんとに人とつながれないのよ」

 

この場合、人とつながれない、の人とは

おそらく家庭の外の人々のことを

言っているのだと思います。

 

この言葉が出てきた文脈も、

その家庭の内勢も私は知りません。

 

何より『うちの子』が

人とつながることを求めているのか、

とも思います。

 

なぜこの話が思い出されたかと言うと、

 

原家族がバラバラになって、

自分の立ち位置や感覚、求めるものが

皆目見えなくなって、

 

何かに操られるように怒っていた頃に

やたら道端の雑草に目がいく

若かりし頃の自分を思い出したからです。

 

原家族と切り離されたような、

原家族によって世界と切り離されたような、

街を歩く人々や、

友達や恋人や同僚や、

そういった人々とのつながっている感が、

フェイク=虚構であるような感覚でした。

 

わけもわからず追い詰められていて、

自分が消えてしまいそうなほど、

小さく感じられていて、

 

そのことに気づかないまま、

そのままの自分を忌避していた、

 

そんな30年近く前のことです。

 

会社からの帰り道、

へとへとになった心で、

大通りを抜けて路地に入ると、

道端の舗装路の裂け目やブロックの隙間にいる、

地味な緑色に目が吸い付けられていました。

 

立ち止まり、なんとなくじっと見入り、

人がいない時にはそこにしゃがみこんで

タバコを吸う始末(もうやめましたが)。

 

そんな自分の行動に、

「何て暗いんだろう」

やりきれなさとともに、

そう感じていました。

 

それは、

自分の置かれた立場、

少しばかり人と異なった背景を与えられた人生、

どこにも行けそうにない魂の絶望を

受け止める術を知らない未熟さ、

 

そういった状況で暗中模索しているが故の

自分なりの『症状』であることを

許容しきれていなかったのでしょう。

 

人とつながることは自分とつながること。

 

自分とのつながりを

信じ切れなかったり、

見失っている時、

 

私が行くべき道筋を、

心がけるべき歩き方を、

理解してくれている誰かを

求めていたのだな、と今ならわかります。

 

そしてそれはいつだって、

自分の中にあるんだよ、と

言ってほしかったのかもしれません。

 

自分自身とのつながりが、

家族の離散によって煙に巻かれてしまい、

 

つながりを求めながら、

つながることを怖れ、

つながりを暗黙に拒否し、

それでいてつながれないと嘆く、

 

そんな日々と

その時の自分を思い出して感じる

切なさと未熟さと愛おしさとおかしさとを

受け止められるようになった頃から、

つながりの喪失の感覚が

ゆっくりと薄らいでいきました。

 

道端の雑草の話は、

私の中でそんな風につながっています。

 

道端の雑草は、

誰にも気にかけられず、

踏みつけられて、

引っこ抜かれて

何だか、庶民そのものみたいだ、

と感じます。

 

でも、そんな雑草たちが広がり、

ちょっとしたエリアを閉めるようになって

家族ができて、

新しい命がつながることもあります。

 

そうではなくても、

持てる力で根を張って、

生きています。

 

他の誰からも知られなかったとしても、

認められなかったとしても、

あなたはあなたが何者かを

心の奥で理解している。

 

いえ、もう一人、

私もほんの少しでも

理解できたらと思います。

 

昭和天皇は、

雑草などという植物はない、

と言われていたそうです。

 

あなたがそうであるように、

あなたが名前を知らない小さな草が、

それでも懸命に生きている。

 

時々、ちょっと気に入らなかったり、

イラついたり、

ぶつかったりすることもあるけれど、

 

焦らなければ、

世の中の評価を求めすぎなければ、

つながりができるかもしれません。

 

私たちは動くことができます。

見ることも聞くこともできます。

感じることも、それを伝えることもできます。

 

もしかすると、

つながりはいつも身の回りにあって、

それに気づいていなかったり、

それを試そうとしなかったり、

怖れているだけなのかもしれないですね。

 

ー今回の表紙画像ー

『シーバス(鱸)が釣れたので、フィッシュアンドチップスを作ってみた(見えない?)』

シーバスはこれ↓