『好きなことで食べていく』
あまりにもよく聞く言葉。
実際、
自分の好きなことをやって、
食べていけたらいいなあ、と
誰もが一度ならずとも願ったことが
あるのではないでしょうか。
『バカの壁』の著者である養老先生は、
仕事は他者のためにある、
と言っています。
「ボクは虫取りが仕事にならないと知って、
それを悟った」とか。
(養老先生は昆虫採集が鬼趣味。。。)
時にぷぷぷと笑える話し方をされるので、
確かにそうかもなあ、
と思うこともあります。
それはさておき、
“自分が好きなこと”を
仕事に中に組み込む、
仕事の中心にする、
そうできるといい、と言うのが
『好きなことで食べていく』
の真意であるのはご存知の通り。
この言葉は裏を返せば、
それほどに、
やりたくないことをやらざるを得ない、
そんな人が多いということでしょう。
やりたくないこと、
気が乗らないこと、
好きでないことを
やらざるを得ない時、
そのままの心持ちでやると、
とても辛い、
あるいは、
面倒くさいですよね。
だったら「や~めた」とできれば
よいのですが、
そんなに簡単に投げ出せないことも
あるでしょう。
“現実的”と言う解釈を
言い訳と見る向きもいますが、
それこそ“現実的”に考えれば
「や~めた」とはなかなかできそうもない。。。
そして、そんな状況になったのが、
自分の選択の連続の結果だとしても、
やりたくないというのは事実。
だから何となく、
嫌々やりながら、
苦痛の時間を過ごす羽目になったり、
どうしても手が進まなくて、
まともにできないまま、
これからもこんな時間が続くのかと
ため息をつき続けたり…。
その時間の中には、
愛が見当たりません。
………???
な、なんだ、いきなり。
愛がどうのなんて…。
そう思われた方、おられるでしょう。
いえ、私も愛がどうだから〇とか×とか
いうつもりは毛頭ないんです。
ただ、事実としてそこには、
愛がない。
正確に言うと、
愛を見つけようとしていない。
そんな状態になっている。
好き、やりたいこと、は
自分にとっての愛のほんの一部。
他にも、将来のため、貢献、サポート
などがあります。
一般的には良くは見られない
自己顕示欲や自慢、同情も
時と状況をわきまえれば
その一つ足りえます。
もっとも、時と状況をわきまえないと
とんでもないこと(人を見下したり、
自他に不要な負荷をかけたり)を
起こしがちなので注意が必要ですが。
いずれにしても、
やりたくないと感じていることを
それらの何もない状態で行うことは、
自分にとっても周囲にとっても
不幸そのもの。
その時間を耐えることを繰り返しつつ、
日々を過ごすという生き方も
あるのかもしれませんが、
耐えることだけに時間を費やし、繰り返すうち、
耐える生活が日常に“こびりつきます”。
だからどこかで、
このやり方は、自分にとって愛がない、
つまり自分には気持ちよくなくて、
どこかで変えたい、
という真実を切実に、明確に、
感じる必要がある。
切実に、明確に、がミソです。
嫌でしょうがないんだよ、と
駄々をこねるような感覚を
もう少しだけ昇華して感じ取ることです。
やりたくないことが、
自分の人生の中で生じたこと、
めぐりあわせとしてやる羽目になったことだとして、
そのことをしっかりと把握したうえで、
自分であるが故に携わることになったことを、
次のようにみつめなおしてみるとどうでしょう。
今はやりたくないと感じていることが、
どうしてもやらざるを得ないなら、
やりたくないと感じていることは自覚した上で、
将来の何につなげるか、
あるいはつなげないか、
ミニマルにすませるにはどうしたらよいか、
誰の何のためになり、
そのために何ができるか、
この中の何かがもしかすると将来につながらないか、
誰かのためになりはしないか、
何かの足しにならないか、
どこかに楽しめる部分はないか、
これが逼迫した状況ならどうするか、
など、です。
これ、一言で言うと、
自分にとってのメリットを見つけ出して、
そこに集中してみる、ということ。
もちろん大前提として、
動けなくなるほど心が傷つけられない、
ということがありますけどね。
そういったことを考えていると、
不思議なほど恐怖や面倒くささが
『消えるのではなく』
受け入れられるようになります。
しょうがない、ちょっとやってみるか、と。
この部分だけは真剣にやってみよう、と。
あ、あの子たちのためになるかも、と。
自分もちょっとだけ試してみたいな、と。
あなたの今は、あなたの選択の連続の結果ですが、
それは言い換えると、
与えられた状況への対処の連続とも言えます。
そこに愛を見出すことを積み重ねるうち、
そこに愛が見出される状況が生まれ、
やがてそれが常態となり得ます。
その時には、
あなたへの愛であることが
実践の中心になっているかもしれません。
やりたくないこととして、何があるでしょう。
機械のような効率化や、
コンピュータのようなスピードと正確さ、
といった成果を求められること、
指示が曖昧でいて威張る上司や
自分に対してはマウントしてくる同僚、
といった人の関係に身を置くことだったり、
親和性がない状態で、
量産開発・設計やプログラミング、
経理や法務など
といった仕事の内容だったり…。
それらは一見、愛と正反対の世界に
感じられるかもしれません。
いえ、もしかするとそれをうまくこなせず、
結果として力ある者からの叱責が続いて、
そこに愛を見失ってしまっているのかも。
だから、一度に何もかもを転換させるのは
難しいかもしれません。
ことに、この中に感情が入り込むと、
困難さは度を増してしまいます。
ですが、
両極で重ならないように感じられることほど、
実は融合が必要であり、大切なこと。
だから、あなたなりのやり方と感性、
好み、想いといった愛によって、
効率化することを目指してみてはいかがでしょう。
やらなければならないことの向こうに
別のゴール・目標が見えてくればしめたもの。
愛は人や心で、
効率化は勉強や仕事という区分けは
おわりにしましょう。
この世に必要ないものはない、
というのが真実なら、
忌み嫌ったり、
毛嫌いしたり、
受け付けなかったり、
となっているのは、
そこに愛を見出していないからかも
しれません。
私もまだまだこれからですけどね。
ー今回の表紙画像ー
『相模湾夕景』
海に散歩に出かけたついでに。
最近のコメント