苦しさの向こう側にあるもの

日々の棚卸

 

高校生くらいからジョギングの習慣があり、

ある一時期を除いて30数年、

細々と続いています。

 

スクワットや腹筋・腕立てと

セットで行います。

 

もう習慣ですね。

 

こう書くとちょっとばかり

勇ましく読めてしまいますが、

現実は、その辺のおじさんが

よっこらしょ、とやってる感じかな。

 

 

先日、青空が広がった午後、

川の土手をゆっくり走っていたのですが、

そのペースにしてはめずらしく

息苦しさを覚えて速度を落としました。

 

それ以上特に何かあったわけではないのですが、

 

あれ、この感じは、と思い、

過去に引っかかることを思い出して、

それが今日のお話です。

 

 

まだ、両親の葛藤や自分の置かれた状況が

うまく解釈できずに

心身が追い詰められっ放しだった頃のことです。

 

走っていて起きた現象に

こんなことがありました。

 

心臓は走れなくなるほど苦しくはない、

足も腰も正常で、

どこかに痛みを感じてるわけでもない。

 

でも、なぜかこれ以上、足が出ない

、という経験です。

 

正確には、足が出ない、ではなく

(走っていたのですから足は出ていた(笑))

足を出したくない、と言う感じ。

 

実家を出て10年ほどもたったころのことです。

 

ジョギングというか、

走ることが嫌いな人なら、

そんなの自分だってやりたくないよ、

と言われるかもしれません。

 

私にも嫌でやりたくなくて

故にやっていないことはありますが、

その時の感覚は、それとは非なるものでした。

 

真冬の夕暮れ時で、

運動による痛みとは異なる、

妙に息苦しくて、同時に体が重かった。。。

 

走り終えて部屋に戻る途中、

自分は何をやってるんだろ、と

思ったものでした。

 

何か得体の知れない切迫感があって、

それが当たり前と言われる感情ばかりか、

体の動きにまで影響を及ぼしている。

 

何がそんなに苦しいのだろう。

何をしている時もその疑問が

頭から離れませんでした。

 

それがその頃久しく連絡を断っていた

両親に纏わる感情であることに思い至り、

「まだか」とぼんやり感じたことを

思い出します。

 

苦しい、には

 

ぼんやりとしたもの

未来の不安におびえているもの

進行中でたたかっているもの、

そして過去に根を持つことに気づいていないもの

があると思います。

 

そういう意味では、

ジョギングそのものがもたらす苦しさは、

進行中のものです。

 

しかし、私が体験したのは、

先に書いた通り、

走ることによる息苦しさとは異質の

“何か”でした。

 

“何か”…。

 

両親の問題に囚われ荒んだ

自分の生活を立て直すため、

 

そして両親を彼らの人生に向き合わせるため、

 

距離を取ったはいいけれど、

そこに顕在化したのは、

 

相手の非を徹底して責める気持ちを抱きつつ、

 

社会人でありながら

親を支えられない不甲斐なさに

打ちひしがれた自分と、

 

距離をとっても一向に

良くなる気配のない両親の関係で、

 

その状態で自分の生活を管理することが

なぜか無意味に感じられたことでした。

 

まだ当時の私には、

 

自分に起こることと、

無力感や憤りを含めた自分自身の感情とを

丸ごと受け止め、受け入れること、

 

そして、自らの愛情が親を含めた他者を

変えられるという考えは幻想であるということ、

 

この2つを理解していなかったし、

当然実践もできていませんでした。

 

走ること一つとっても、

そこに何かを覆い隠す無意識が働くと、

思いもよらない結果が出てきます。

 

年齢を重ねて、

心理学、精神病理について学び、

苦しさ・哀しさのもとを知ることが

自分と大切な人々を守ることになると

今は理解しています。

 

 

私たちに起きる一つ一つのことは

何らかのメッセージを含んでいると

よくお話ししています。

 

メッセ―とはつまり、

 

そこで行き詰っているんでしょ?

ではどう生きる?

 

という人生からの問いかけそのもの。

 

それを無視して、

今に寄りかかりながら言い訳をしていたり、

あきらめていたりしている限り、

 

あなたの中の気持ちの矛盾は続きます。

 

気持ちの矛盾とは、

 

憤っていたり、

怒っていたり、

卑下していたり、

悲しんでいたり、

と言った感情と、

 

求めるもの、

実現したいこと、

ありたい状態、

と言った望みとが、

 

正反対であるにもかかわらず同居して、

双方が譲らない状況のこと。

 

決して、

文句を言うことが悪いのではなくて、

 

文句を言いながら

その対象に寄りかかっている状況が

自らを苦しめているということ。

 

そろそろ察知して、態度を決めようということ。

 

苦しさと言う言葉は抽象的ですが、

ホントいろいろありますね。

 

血を流している凄い状況はもちろん、

 

目には見えないけれど

パニックに陥っているような時や、

慢性的に体を襲うショック、痛み、

 

あるいは心情に起因する嘔吐感や

血が凍り付いてしまいそうな感覚は、

明らかに病的ですし、

心因を求めたいことです。

 

そこに自分の生き方が招いた側面があるなら、

それは変えていけるということですよね。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所の土手夕景』