殉教者と言う言葉がありますよね。
死を賭してまで自分の信仰に殉じること。
キリスト教でよく使われる言葉ですが、
言葉の意味としては特定の宗教に限りません。
宗教と書きましたが、
実際には宗教の範囲にさえ限らないと
個人的には考えています。
仕事、恋愛、隣人関係、人生、家族…。
大人になるまでに、
与えられた教育や生育環境、
付き合った人やもらった言葉、
受けた仕打ち、
見聞きした噂やニュースや体験、
そうやって積み重なった経験をもとに、
個々人が“解釈した”世界を内在化して、
そこで自らが理屈化した法律に基づいて
人を、世の中を“ジャッジ”しては、
落ち込み、怒り、拗ね、
時には鬱病を発症して、
苦しんでいることがあります。
人、の中には、自分も含まれていて、
実は自分自身が、一番容赦なく自分を
世知辛く“ジャッジ”して、
追い詰めていることも少なくありません。
その見方、その考え方、そして感じ方、
あまりに一面的ではないでしょうか?
…と言う説明になると、
ご存知の方も多いかもしれませんね。
ただそれは、
自らを取り戻す回復過程の中にも
潜んでいたりするから気を付けないと。
★
自分を取り戻すプロセスを歩む中で
誰かのために何かをしたいと感じて
“利他”を意識して行動するようになるとき、
自分を厳しくジャッジしてばかりの人がいます。
自分を顧みられるようにしていたはずが、
いつしか自分を蔑ろに扱い、
一度は手放せたはずの世界へ逆戻り。
不幸な被害者の物語を生きていた自分に
気づいたものだから、
懺悔的な気持ちもあるのかもしれません。
ああ、思い当たる節が…。
そう感じた方、おられないでしょうか。
世の中に何かを提供するとき、それが
労働力であれ、
お金であれ、
あるいは善意であれ、
自分を省みないことは、避けたいですね。
なぜか。
与えるものの中に、自分を省みない、を
埋め込むことになるから。
与える自分か、
与えられる相手か、
あるいは、そこに関与する誰かが
傷つき、くるしむことになるから。
自分の体調、気分、スピリット。
そういった自分固有の資質を蔑ろにせず、
大切に扱いながら生み出すものこそが
あなた自身を救い、
もう一人の誰かを救います。
よく言われる、
大切なこと、やりたいことをしていこう、
そう言われる所以でもあると思うのです。
自分が大切にされて、
他の誰かも大切にされる。
そういった道、生き方もあっていい、
ではありません。
最優先でそんな選択肢を選ぶ、
見当たらなければ探すなり作る、
自分が納得できる人生を生きる上で、
また充実して働いていく上で、
それ以上ないほど、必要なことです。
★
その昔、生徒に親しまれ、
親御さんや他の教師からも尊敬されていた
ある学校の教師がいました。
奥さんは内助の功を絵にかいたような
良妻賢母。
その息子は、子供の頃は優秀でしたが
挫折をきっかけに
家庭内暴力を繰り返している。
ある夜、父である教師と母である妻は
互いに相談し、
これ以上この息子を放置しておくことは、
次男三男と家族の未来を失うことだ、
という結論に達し、
眠っていた息子を殺してしまいました。
裁判では、周囲から同情の声が集まり、
裁判長からも『察してあまりある』
と情状酌量を勝ち取りました。
『仮面の家』の題名で本にもなっていますので
詳細は省きます。
登場人物の背景も経歴も省略します。
本だけでなく、ネットでも
今なら詳しい心理的な解説が読めます。
その上で…
何なんでしょう、これ?
何かを犠牲にして切り開く未来?
犠牲は単に息子だけではなく、
その父親や母親の生き方の中にも
内在していたのでは?
そう思えてなりません。
少し飛躍しすぎでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『草むらに寝転がって見えた太陽』
川に遊びに行って土手に寝ころんでぱちり。子供の頃はこんな角度から当たり前に眺めていたけれど、何だか久しぶりで新鮮だ。
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