利己と利他をつなげるために行うこと

エクササイズ?

 

利他に突き動かされる時、

人はとても強くなると言われます。

 

多くの人が感覚的に理解できると思います。

 

ある目的があって、それを達成することが、

誰かを助けることになると感じていると、

強くなります。

 

東日本大震災の後、

優勝した楽天イーグルスの嶋選手は

その原動力をこう表現しました。

 

『誰かのために闘う人は強い』

 

楽天の優勝は、震災で弱っていた

東北の野球を愛する人々の心に、

復興に向けた勇気を与えました。

 

それほどに、自分の求める結果が

利他とつながる時、

人は強くなります。

 

それはある種の思い込みじゃないの?

そう言われれば、そうかもしれません。

 

実際、

 

誰かのために闘った結果が、

それも闘って勝ったとしても、

思い通りの結末を得られず、

 

誰かのためになったようには

感じられなかったり、

 

誰かのためにならなかった、

ということもあります。

 

それでも、

 

自分が頑張ることで、

他の誰かが助かる、

他の誰かが歓んでくれる。

 

その“他の誰か”が自分にとって

とても大切な人であれば、

力が発揮されます。

 

…ところで、これ、

当たり前のことなのでしょうか。

それとも不思議なこと?

 

 

頑張るのはよくない、

少なくとも頑張りすぎるのはよくない、

そう言われます。

 

昨今の風潮もあってか、

そういう人が増えた気がします。

 

私は、頑張ること自体を

否定しません。

 

何をどう頑張るかは

考える必要があるけれど。

 

ともかくも、

頑張って報われなかった思いが

強いほど、

 

そして、

それが自分以外の大切な誰かの

ためであればあるほど、

 

結果がついてこなかったとき、

思いがかなわなかったとき、

その反動が大きいことは

誰にでも理解できるでしょう。

 

しばらく打ちひしがれたのち、

あきらめることができて、

さあ次だ、と行ければいいのですが、

 

頑張りの中にはしっかりと

自己犠牲している自分という認識が

住み着いてしまっていて、

 

その認識が時に自分を、

頑張った時間という過去に

束縛させてしまうことがあります。

 

なぜならそこには、

自分の心身の原型を形作る原風景を守ろうと

今も闘い続ける自分がいるからです。

 

例え囚われていたとしても

変えられないはずの過去に想いがいくのは、

自分という存在そのものを守ることでもあるから。

 

残念ながら多くの場合、

その試みはうまくいきません。

 

過去に囚われたままでは、

今を変化させようがないからです。

 

かといって、重石となって

体や脳の中に置かれた時間を無視して進もうとしても、

 

この複雑な社会の中を歩んでいくことは

とてもとても大変なことです。

 

 

自分の存在が疑いようもないほど肯定的で、

自分の欲求を求めて生きていくことを

当たり前にやっていると、

 

利己的であると同時に利他的にもなります。

 

私たちはどこかでこの意味において

自分はどうしたいか=自分ファーストを

必要としているのではないでしょうか。

 

とても怖いことですよね。

 

そんな生き方してこなかったし、

そんな生き方したら大切な人々が

おかしくなってしまうように教えられたし、

 

そんな身勝手は身の破滅につながる、

そう教えられてきたし。

 

だから、複雑な理屈をつけては、

自分ファーストの生き方など

存在しないように考えてしまうんです。

 

でもね、物事は程度問題です。

 

自分が背負ったり助けられたりという感覚を

感じる機会が乏しいと、

 

自分を優先するときも必要だ、

という理解が肌感覚にありません。

 

徹底してまず、自分に寄り添う。

 

身勝手と言われようが、

自己中と言われようが、

自分に寄り添うことがどうしても

必要なことは何か、

 

それを痛む胸と哀しく感じる心と

時に湧きあがる怒りをヒントに、

考えてみてください。

 

自分が利他になることで、

結果として自分が崩れてしまわないよう、

幾ばくかの時間をかけて

自分をしっかり守る訓練が

必要ではありませんか。

 

ー今回の表紙画像ー

『ドナルドキーン展』

近代文学館に行ってきた。

若い頃、混乱とパニックにおぼれていた頃、心の支えになってくれた方の一人です。