自分の内面、それも
なかなか人に言いづらいことを、
話したり書いたりして表現するのは、
とても勇気がいります。
他の誰かに対してはもちろん、
表現する内容によっては、
自分に対してさえ、
認識すること自体を、
無意識が躊躇してしまうこともあります。
怖い、
恥ずかしい、
惨め、
悔しい、
苦しい、
窒息してしまいそうだ、
そういう感覚が邪魔をするからです。
そして、自らにこう言わせます。
そんなこと表現して、
何になるんだ、と。
自分にダメ出ししてどうするんだ、と。
★
よく言われている通り、
私たちの意識の奥には、
膨大で茫漠とした無意識が存在します。
そこには、何人かの根源的なあなたが
住み着いていて、
そのあなたに基づいて日々を生きています。
常に意識して、
頭で考えて、論理を組み立てて、判断して、
間違いのないように、
自分も他者も傷つけないように、
話し、振舞い、行動しているけれど、
なぜかうまくいかない、
おかしなことがよく起こる、
落ち込んだり無気力になったりする、
あるいは、
親や上司や友人や伴侶や誰かへの怒りで、
物事が手につかなかったり、
集中できなかったり、
気がつくとぼんやりと考え込んでいたり、
勝手なドラマを作り上げていたりする。
…だとするなら、
もしかすると、
何かが欠けているのかもしれません。
欠けているとは、
不足している、ではなくて、
あることを見落としている、
という意味です。
それが冒頭で述べた
表現が困難な内面のあなたです。
先に、無意識には何人ものあなたが
住み着いている、と言いました。
あまり知られていないかもしれませんが、
全ての人の中には
何人ものその人が存在しています。
あなたの中にもまた何人ものあなたがいて、
その一人ひとりが大事な魂を宿し、
あなたの中で息づいています。
そう、
ただ存在しているだけではなく、
息づいているんです。
魂を人格と言い換えれば、
統合が“極端に”うまくいっていないと
統合失調が生じる場合もあるかもしれません。
統合失調という病を見下す人がいますが、
ここまで読んでいただければ、
実は私たちと無関係の症状ではないことが
わかると思います。
だから、日々がうまくいかなくて、
苦しんでいるのなら、
無意識の底に沈めて放置したあなたの魂を
もう一度意識の俎上にあげることを
試みてほしいのです。
表現が困難な内面を、
安全な場を見つけて表現することは、
その有力な手段です。
最初は恥ずかしいと思ったり、
おかしな内容だと違和感を感じることでも、
外に出していくうち、
必ずたどり着く場所があります。
ここにいたんだ、と。
こうだったんだ、と。
自分だったんだ、と。
そんなことを裏付けるような
光景、音、匂い、肌触り、温度…。
そういった感覚が蘇ることは、
今まで憎んでいたり恐れていたりしたものが、
的外れであることに気づく時であり、
それまであなたが作り上げて
あなた自身を苦しめていた檻が
崩壊していく瞬間でもあります。
自分は自分以外の何者でもありはしないし、
それはとても幸福なことだった、
それは今でも続いているんだ、
理屈抜きにそう感じる瞬間です。
もちろん、
これで成長は終わりではありません。
だから、たどり着いた場所は
ベースキャンプと呼ぶのがふさわしいと
個人的には考えています。
一つベースキャンプにたどり着くたび、
生きる本質的なパワーを得ます。
そして、
その感じ、
そこに至る感覚、
そのきっかけとなる出来事、
それらを伝えることは、
あなたが継承されることです。
今がたとえ打ちひしがれていたとしても、
出来ることはあります。
すぐ行動できなくても、
構想できることがあります。
能力がないのでは、と
訝りながらでも計画できることもあります。
あなたの魂を、
それも埋もれさせていたあなたの魂こそを、
安全な場を見つけて、
もう一人の誰かに伝えてほしい。
あなたが変化し、
あなたが良くなり、
それはもう一人の誰かのためにもなります。
その連鎖の輪に組み込まれる時、
その連鎖の輪が重なりだす時、
人生が良い方向に動き始めます。
ー今回の表紙画像ー
『ガストのウエイター猫』
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