良くない結果ばかりが続くときに、日常を変えてみることについて

日々の棚卸

 

いつの頃からか、

いろんなことがうまくいかなくなって、

あきらめることなく努力するのだけれど、

何かが変わった気がしない。

 

そんな感じを抱いて、

どのくらいたつでしょうか。

 

日常を変える方法については、

ささやかなことからドラスティックなものまで

いろいろと語られています。

 

私が迷っていた頃、

どんな方法があるか、も知りたかったけれど、

どんな順序や何が適しているか、も

知りたかったけれど、

 

どんな心持ちと言うか、

どんな腹づもりで実行すればよいか、

実は気にかかっていたような気がします。

 

 

いろんなことがうまくいかなくなったと

感じるということは、

 

かつて何かがうまくいっていた、

かつて問題なく事が運んでいた、

かつて疑うことなく自分がそこにいた、

 

そんな体験を持っていると

いうことではないでしょうか。

 

社会に出てみると、

どうにもうまくいっていない。

 

いや、ホントは学生時代から、

いや、もっと遡って子供の頃から、

 

たいしてうまくいっていなかったのかも、と

疑うようになったり…。

 

うまくいかない…。

 

つまり、

良くない結果ばかりが続いている…。

 

良くない結果とは何でしょう。

 

仕事で怒られ続けること?

 

人からのけ者にされ続けること?

 

低収入で苦しみ続けること?

 

繋がれないこと?

 

満たされないこと?

 

そこから抜け出ようと頑張ってみたのだけど、

 

抑鬱的になってしまったり、

空回りしてしまったり、

体を壊してしまったり、

 

どうにも良い兆しが見えない。

 

そんな状態が続くうちに、

ますます心身が蝕まれ、

 

時には働くことさえ困難になる。

 

そんな状態のあなたを、

「甘えるな」「皆もっと苦しんでるんだ」

と言う人が居るとしたら、

 

そう言う人は、それこそ

自分が甘えている自覚がない。

 

(うまく)甘えられないからこそ、

空回りが続き、

日常が硬直し、

自分が居場所を感じられなくなるんだから。

 

苦しんで抑鬱に陥っている誰かを

甘えている、と一刀両断に切り捨てる人は、

あまり信用しない方がいいかも。

 

ともかく、

良くない結果が続いている人は、

 

そこにいることそのものが、

誰かといること自体が、

自分には分不相応だと勘違いするようになる。

 

あなたはそんな状態になっていないでしょうか。

 

良くない結果が、

あなたが何かをやろうと決意した上のことなら、

その何かを良くするためのヒントで、

残念ではあるし、多少凹むかもしれないけれど

でも挽回の余力はあるでしょう。

 

でも、決意もしていない、

生活を支えるためとか、

社会的に見栄が立つから、

と言った理由で、

 

そこにいて、それを続けて、

良くない結果が続いていて、

疑心暗鬼になっているようなら、

 

決定のプロセスとしては

確かにいかがなものかと言う部分はあるにしても、

 

現実的にあなたの居場所としては、

あまりよろしくないところではないでしょうか。

 

私たちにとってとても良い居場所の一つは、

 

自分の存在の確からしさと

自分が生きてきたルーツの肯定感が

ベースになるものです。

 

その感覚を醸成するために必要なことについては

度々述べてきましたが、

 

醸成して得られるものが

しっかりと自分の中に根付いて機能しだすまで、

 

その状態=良くない状態を耐えているうちに、

 

自分自身が壊れてしまうようでは、

本末転倒ですよね。

 

そういう意味では、『一時的には』ですが、

そこは、あなたにとっての居場所では

なくなっているのかもしれません。

 

 

自分の居場所という感覚は、

とても大切です。

 

それは、私たちが自分らしく機能する

大前提となる感覚だからです。

 

自分勝手に傍若無人に振舞える場所

と言う意味ではもちろんありません。

 

かといって、

無理して強制的に

生み出すものでもありませんし、

生み出せません。

 

そんな場所として感じられるために、

多少なりともできることをしてみて、

それでよい結果が得られないなら、

 

日常そのものを変えることを

行使する時期なのかもしれません。

 

そこに留まることも、

新しい場所に向かうことも、

しばらく一人でいることも、

 

選択肢としてはあり得ます。

 

日常を変える行動として、

部署を移動したり転職したり、

恋人と別れたり離婚したり、

休息したり旅に出たり、

 

そういった行動は、

ある種の肯定的な諦念・残念感と決意のもとに

行えるといいですね。

 

私たちが迷うのは、

動く基準、動くタイミング、踏ん切りです。

 

絶対これがいい、

これはダメだ、

というわけではありません。

 

でも、行動は自分の感覚に即して

行うことだけは大切だと

私は常々考えています。

 

自分の感覚に即して、とは

 

自分の感情と現実の立場と

折り合いをつけて選択する、

ということです。

 

ある一面だけで暴走して

良い結果が得られることは

まずないと思います。

 

例えば、良くない結果となる

多くのケースでは、

怒りの捌け口として行動しがちです。

 

その感情の裏側に、計算ずくでも何でも

見通しと自己の肯定感があればよいのですが。

 

「むかつくし、どう考えても理不尽だけど

自分にも相手にも非があるなら、

自分にできることに特化して、

機会を待とう」

 

とできればいいですよね。

 

反対に、自信喪失や不幸が重なって

今でさえこんなひどい状態なのだから、

どこに行っても同じだ、と

行動そのものを諦めてしまうと、

 

ホントは居場所によって大きく変わる

あなたの可能性と良い結果の未来が

失われていきます。

 

間違った居場所に半ば自虐的に

自ら束縛されて、

変化を拒むという変化(=0)の選択を

してしまう。

 

「仕方がない。

今の自分にできることはやってみた。

でもどうも良くできそうにないから、

居場所を変えてみよう」

 

となればよいですね。

 

 

怒ったり泣きわめいたりは

相手に通じる、相手にわかってほしい

そういった感情を根底に持っています。

 

それらを昇華し、

自分の中の小さなスパンで、

 

やれることはやった、

一つのトライアルが終わった、

 

そう感じられた時、

良くない結果と言う現実を引き受けた上で、

その場を去る時なのではないかと思います。

 

引き際、と言う言葉があるけれど、

あるいは立つ鳥後を濁さず、と言うけれど、

 

その意味するところは、

うまくいっていない自分を大切に扱いながら、

自らに小さな変化を連続的に起こすための

コツのようなものではないでしょうか。

 

うまくいっている時には

それを続ければいいと思います。

 

でも私たちが悩むのは、

当然ながらうまくいっていない時。

 

そんな時、一足飛びに良い結果を得ようと焦るのではなく、

そこに至る道筋を自ら決め、

その中で動くときを見極めることだと

言うのが今回の話です。

 

 

ー今回の表紙画像ー

『上野動物園』

流れで午後から出向きました。思ったほど混んでなかった。

駆け足でしたが、

猿山のサルを見て、

目の前に迫ったわにをアップで見て、

群れたフラミンゴを見て、

居眠り中のアザラシを見て、

寄ってきたトラを見て、

行列ができていたパンダ以外の園内の禅動物を見てきました。

いつ以来だろう、動物園。楽しかったけど、足が棒になりました。