その昔、人混みがとても苦手になって、
外出するときはひたすら人のいない所を
選択していた時期がありました。
会社に行く時はフレックスを利用して、
思い切り早く行くか遅く行くかする。
同行者無しの単独で
川や海や山に遊びに行く時は
人より早く出かけて早く帰る。
街に買い物に出かけるときは…
同行者がいる時だけ
混むのを覚悟で出かけたけれど、
たいていの場合は
静かな場所での集まりだったので、
電車なら空いた車両を選択するか、
自家用車で出かけていました。
考えれば何とかなるもので、
実際に人混みに巻き込まれることは
めったになかったと記憶しています。
今も特に人混みを好んでいるわけでは
ありませんが、
いつの頃からか人混みが平気になった
というか、
元に戻ったというか、
一時的な場合は特にですが、
人混みが気にならなくなっただけでなく、
それはそれで
楽しいなとさえ感じるようになりました。
★
人混みに出かけることについてなんて、
長らく気にもかかっていなかったのですが、
この間、ジャズコンサートを聴きに
都心に出かけた際に
久しくなかった人混みに巻き込まれて
右往左往…する余裕もないながら、
ふと脳裏を過ったことがありました。
みんな“同じ”なんだな。。。
若い方から年配の方まで、
いろんな世代が集まる中にいて、
なぜかそう感じました。
何が“同じ”なんだろう。
シックなピアノサックスのメロディと
その時の感覚がない交ぜになり、
不可思議な時間を過ごしました。
★
人混みが苦手だと感じたのは、
家族が離散してしばらくした頃のことで、
周囲の他者が一方的に敵視するように
感じられたことが発端でした。
振り返るまでもなく、
かなり追い詰められていたことは
自明なのですが、
そんなことが数回続いた末、
目的如何によらず、徹底して人混みを
避けるようになりました。
普通の会社員として働いてはいましたが、
そういう意味ではある種の引きこもり
だったのでしょう。
そうやって人混みを避けていた期間は
結構長く、10年近く続きました。
その期間の後半は、
カウンセリングを受けたり、
セルフヘルプグループに通ったり、
同じように家族を失った人々と語ったり
心理カウンセリングの学習をしたり、
セミナーを聴講したり、
とかなりハードに人の中にいたのですが、
前半の数年は文字通り、
人混みを避け、
自然の中に入り浸った日々を
送っていました。
自然と言っても、
雄大な山の奥や大海原と言った
大自然の中ということはなく
(もちろんそんなこともありましたが)
街はずれの森や川、
都心近郊の山々、
漁港や工業港、
戦艦が浮かぶドッグ付近、
近所の公園の花壇や林
など、
遊び方を覚え、
楽しみ方を知れば、
ひっそりと楽しめる場所が
身近にいくらでもあることを知り、
またそんな場所を見つけては、
悦に入るようになりました。
何度か同じ場所に出入りするうち、
年齢も職業も関係ない知り合いができ、
会話を交わすようになりました。
ちょっと大きな、
でも護岸整備されきっていない
街はずれを流れる川は、
治水整備や開拓の工事のために
度々重機が入り、
水の流れが変わり、
流水だった場所がたまりに変わり、
岸辺に張り出した草木が削られ、
土砂で埋められ、
それでも、
本州に分布する大抵の魚たちは、
工事が行われたその場所の付近で
採取することができます。
鯉、フナ、どんこ、モツゴ、ハヤ、カマツカ、
オイカワ、ヨシノボリ、ナマズ、ウナギ、
ヤツメウナギ、モクズガニ、テナガエビ、
モエビ、雷魚、ドジョウ、ハゼ……
パッと思い浮かぶだけでも、
これだけの生き物が思い浮かびます。
メダカやトゲウオのように、
絶滅危惧種に指定されているものも
意外な場所で見つけることができました。
時々引用させていただく養老孟司氏は、
「街ときどき森」
として、
自然に身を置くことの必要性を
説いておられますが、
特にそこを強調したいわけではありません。
私が子供の頃に親しみ愛した
淡水の生き物たちは、
何てしぶとく生きているんだろう。
素朴にそう感じました。
川と言うと、私たちはつい、
凹みが続く地形を水が流れる、
と単純に想起しがちです。
でも、川は地中や底砂利の隙間も
流れているし、
岸近くに点在するたまりも
地中で流れがつながっていることもある。
絶え間なく養分と酸素が流れ込み、
表面上孤立したたまりの中で、
彼らは生き続けることができている。
そうやってしぶとく生きる彼らと
自分とが重なって、
まあ何とか生きてみるさ、
と何度も思ったものでした。
一人でそんなことをするなんて
寂しいに決まっている、と
思われた方もいるかもしれません。
それは否定しませんし、
寂しいながらもそうしたかった自分を
尊重したとしか言いようがありません。
余談ですが、夢枕獏さんの著作
「大江戸釣客伝」は
江戸時代の趣味としての釣りを扱った
作品であり、
生類憐みの令が発布された江戸の社会で
生きることとは無縁の人々が
階級も職業も関係なく
水の生き物と釣り竿を通して接することを
滔々と語っています。
そして、主人公の一人であり、
日本最古の趣味の釣りの本の著者と
される大名の津軽采女(うねめ)に
次のように言わしめています。
「人は寂しいから釣り竿を握るのではないか」
私たちが趣味に入れ込み、
自分の世界に没頭するとき、
そこに寂しさを率直に感じ取ることは
実はもたらされる快楽よりもずっと、
大切なことなのかもしれません。
★
離散した家族のこと、
自死した肉親のこと、
そういったもう解決しえない、
混乱し続けるだけ、
そう感じていた出来事を、
自分の中で自分にできる範囲の
大きさと形で受け止め、
過去の適切な場所に静かに位置づける
そういったことができてくる、
というか感じられるようになった頃から
出かける先が少しずつ変わっていきました。
今も、海や川や森や山は大好きですが、
それと同じくらい
人と一緒に出掛けるのも好きですし、
必要なら人混みの中で
一日中いることもやぶさかではありません。
そこには、混乱し、迷った時に
私が知りたい、感じたいものが
待っていてくれる気がするからです。
駆け足で私の出かける先と
その時々の私の状況を述べましたが、
今自分が出かけている先と内面とは
そんな感じでも繋がっていると思います。
それがいいとか悪いとかはありません。
その時々にあなた自身が求めたこと、
それが人が集まる場所なら、
そんなことを求めているし、
それがひっそりとした場所なら、
そんなことを求めている。
自分が求める場所を理屈抜きに感じるとき、
次の扉が開くのだなと今ならわかります。
自分が向かう場所の特性を
良し悪しで判断したり、捌いたりせず、
ただ感じるままに感じてみましょう。
それこそが、
自分と仲良くすること、
自分に寄り添うこと、
私たちが自分にできる、もっとも優先すべきこと
だと思います。
ー今回の表紙画像ー
『交通渋滞の合間の夕闇』
水槽のモーターが壊れて、師走の忙しない暮れの町をペットショップまでひとっ走り。
渋滞に巻き込まれたおかげ?で気がついた夕闇がとてもきれいだった。
民家の上の空もかすかなオレンジが美しい。
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