今の状態に100%満足しているか、
そう問われてYesと言える人は
なかなかいないと思います。
仕事、収入、友人知人・家族関係、
生活環境、暮らし、
健康、将来の展望、心の平安、
そのどれもに100%満足するのは、
なかなか大変なことのような気がします。
かく言う私も、
今の状態に100%満足かと問われれば、
上を見ればきりがないし、
ないものねだりばかりするより
今できることをするしかないかな、
なんて思いつつ、
「いやあ、100%なんてとてもとても」と
答えるような気がします。
★
では、
今の“状態”のところを、
今の“人生”と置き換えたらどうでしょう。
今の“人生”に100%満足しているか、
そう問われたら、
多少、Yesと答える方がおられるような
気がします。
問いが抽象的な分、100%の満足の意味に、
ある種の肯定的な諦念を
含められるからなのかもしれません。
かく言う私は、この問いに対しても
やはり、先の問いに対する答えと
同じになるような気がします。
「いやあ、100%なんてとてもとても」
★
ではもう少しひねって、
今の人生は“100%望んだ結果”か?
という問いに対してはいかがでしょう。
2016年に週刊の連載が終了した、
私の大好きなこち亀で両さんが言った台詞に
こんなのがあります。
「100%思い通りになってるなら、
わしは今頃総理大臣だ」
総理大臣かどうかはともかく、
思い通りになら、こんな人生のはずがない、
と思うのが普通なのかもしれません。
私自身はと言えば、
これまで何度か述べてきたとおり、
原家族にも自分にもいろいろあって、
思い通りにいったとは思えてないけれど、
一方で、ここまでの人生は
まあ、とりあえずこんなもんかな、
とも思っています。
よくもまあ、こんな経験して、
ここまで生きてこれたなあ、
というところでしょうか。
それは、この問い、つまり、
今の人生は“自分が100%望んだ結果”か?
に対する答えでもあります。
つまり、
100%という単語は脇に置くとして、
暮らしのことだったり、
仕事の内容や立場のことだったり、
職場や生活圏の人間関係だったり、
あるいは、
どうしても許せない過去の記憶だったり、
どうしても拭えない昨日の痛みだったり、
どうしても見えない未来への希望だったり、
そんな今の自分をして、
『幸せ』と呼ぶかどうか、
『満足』と呼ぶかどうか、
『希望通り』と呼ぶかどうかはともかく、
少しシュンとして俯いた感覚も含めて、
100%望んだ結果なのだろうなと
受け入れることにしている、ということです。
それは、
“自分が望んだ”ことを振り返り、
これまで無意識に蓄積してきたことを
思い返せば、
ごく自明のことだと思うからでも
あるんです。
これまで話を伺ったり本で読んだり、
もちろん自分が感じたことも含めて、
“自分が望んだこと”、
思いつくままにあげてみると、
億万長者になりたい、
自由になりたい、
時間に縛られずに生きたい
誰もから好かれる人になりたい、
大きな家に住みたい、
素敵なルックスになってもてたい、
ひとかどの人物になりたい、
のんびりとした人生を生きたい
エキサイティングな仕事をしたい
自然の中で暮らしたい、
などなどなど…。
きっと、挙げればそれこそいくらでも
出てくると思います。
とても肯定的で、
希望を言葉にしていて、
多くの方がこれらのいくつかは
実際に願ったことではないでしょうか。
ここで述べたいのはこの先です。
私たちは自分が望んだことを
上述のように認識しがちです。
それは願うことの落とし穴でもあるわけです。
どういうことかというと、
私たちにとって望みとして最も支配的なものは、
日常的な願い、つまり、
日々心を支配する感情だということです。
私がお世辞にも幸せを感じられなかった頃、
私は父母の葛藤に巻き込まれて、
彼らへの怒りや
それを投影した職場や世の中への不満に
包まれていました。
自分が一体何をしたというのだ、
なぜこんなに苦しまなければいけないのだ、
これ以上何をどうすればいいのだ、
そんな、
やりきれなさ、憤り、脱力感、
笑ってしまいそうなおかしな怒り、
混乱、憎悪、卑下、哀しさ、
そういった感情が渦巻いていました。
そして、そんな感情に支配されている間、
自分が受け止め、理解しようとした感覚は、
幾層にも重なって無意識に蓄積され、
その無意識に沿って言動を繰り返すことで、
ますます苦しくなる負のループに
陥っていきました。
とても残念だけれど、当時の人生は
まさに“自分が望んだ”通りでした。
私なりに、
幸せになりたい、苦しみたくない、
もっとお金を稼ぎたい、自由でありたい、
そう切に願っていたにもかかわらず、です。
「それは違う、
決して望んだことなんかでは絶対にない!」
当時の自分なら
そう怒鳴り返していたかもしれません。
でも、今振り返ってわかるのは、
やはりそれは自分が望んだことの範疇に
入ってしまう、ということです。
その頃特にそう願っていたわけではないですが、
仮に私が、
「会社の社長になりたい」とか
「億万長者になりたい」とか
「格好良くなりたい」とか
望んでいたとしても、
それを遥かに上回る別の感情が
日々渦巻いていて、
生まれ育つ中で経験したことの解釈も含め、
その混乱を基準として解釈したものが
無意識を占めてしまっていたのだから、
当時が苦しかったのは、
自分が望んだことと認めざるを得ません。
自分に起きたことを受け入れずに
その感情と闘っている間、
私の世界はまさに、その通りになっていった、
ということでした。
先回も書きましたが、
無意識という膨大な記憶の海が
世界の見方、感じ方、自分の行動を
支配するということは、
そこから抜け出すためには、
その見方、感じ方に影響を与える解釈を
総ざらいで変える必要がある、ということになります。
蓄積にかかったのと同じだけ時間が必要、
というわけではないですが、
そのもう一段階上のレベル、
今のはやりで言えば、
メタ無意識の書き換えを行うべく、
洞察、自らの受入れ、原風景の再獲得
に時間をかける必要があります。
オグマンディーノも言う通り、
私たちには選択する力があります。
ただ、選べないものもあります。
生まれ育つ環境と
与えられる慈しみの度合いは
どうしても人によっては十分でなかったりします。
そして、その違いを含めて引き入れ、
自分のものとして人生を生きる時、
それまでとは異なる感覚が必要になります。
繰り返しになりますが、それが、
自らの原風景を蘇らせて、
遠ざけていた自分と邂逅・再統合し、
自分に寄り添って生きるすべを身に着ける
などといったことなのです。
その中で、きっと気づくのは、
自分の限界がそれまでの人生を招いたように
つまり望んだ人生にしていたように、
自分に影響を与えた人もそうだった、
その中で自分は育まれたのだ、という洞察です。
この洞察の過程で、もしかすると
最大の救いであり、恵かなのかなと
感じられるときがきます。
あきらめることなく継続する中で、
それまで支配していたはずの体の感覚が
徐々に変化していき、
それまで無理だと感じていたことが
少しずつできるようになり、
それまで嘘だと感じていたことの中に
真実を見出すようになり、
それまで必要ないと思っていた慈しみを
自らが実践するようになります。
これは頭でわかっただけでは、
あまり意味がありません。
実践あるのみ、です。
ー今回の表紙画像ー
『コオニヤンマ羽化』
3月早春だというのに、陽気に誘われたか、我が家の室温が異様に高いためか、水槽に入れておいたヤゴが羽化してしまった。。。
朝起きて、眠い目をこすって対面の壁を見たら何やら違和感が。。。
トンボがついているんだから、そりゃそうですよね。
日が高くなってから、ベランダにあるメダカ水槽の脇にそっと置き放しました。
その日は、抜け殻を取り払う気にもなれず、1日ついたまま。。。
なんかすごい部屋だな。
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