一昔前だったか、
鈍感力という言葉が流行りました。
世の中に広がった意味合いとしては、
人から嫌なことを言われたり、
不愉快な噂を耳にしたり、
不快なニュースを聞いてしまったり、
そんな時でも、適度に鈍感でいよう、
たいていは深刻になることじゃないし、
そんなことで自分を見失う必要はない、
何もかも真に受ける必要はないし、
そんなことで自分を苦しめルナじゃないよ、
そんな感じだったと思います。
この言葉が流行った背景には、
今世紀初めに発売され、
ベストセラーとなった同名のエッセイも
関係するのかもしれませんが、
私自身は拝読したことがないので、
あくまで言葉を聞きかじったものとして
受け取ってください。
…で、何が言いたいかというと、
この言葉を耳にした当時は、
言いたいことはわからんでもないし、
できるならそうしたいのだろうけれど、
実際にこの類の言葉を
真剣に必要としている人にとっては
ずれた表現のようにも感じていました。
鈍感って、
なろうと思ってなれるのだろうか、
と感じたのですね。
HSP(Hyper Sensitive Person)の人でなくても、
良し悪しは別として、
気になることは気になるものです。
少なくとも、その人にとっては外せない、
あるいは外したくないもの、
後悔、哀しみ、怒り、怖れ、苦痛…、
そういった感情を想起させられることは
その根っこにあるもの、
― 大方は過去に由来するものですが ―と
折り合いをつけない限り、
姿を変え、形を変えて、
今現在の時間に現れ、
同じ感情を繰り返し引き起こさせます。
そういったレベルで悩む人にとって、
鈍感力という言葉は、
慰めにはなるかもしれませんが、
受け流したり、無視したりして
済ませるわけにはいかない問題は、
向き合うしかありません。
…。
と、つらつら書いてきましたが、
この言葉で解決しない問題が、
一朝一夕で解決するならともかく、
長い時間を真正面から向き合い続けるのは
精神的にも肉体的にもハードであることも
また、確かです。
感情の表現というのは、
それが何かを洗い流してくれて、
その先に新しい希望を感じ取れるからこそ、
一段落した時に、
落ち着けるし、スカッとする、
つまりカタルシス、浄化を得られるのですが、
苦痛に纏わる感情を、
ただただ感じ続けるというのは、
何かの荒行でもない限り厳しいものです。
…。
鈍感になって、日常が良くなるなら
それに越したことはないと思います。
でも、もしこの言葉が流行った頃に、
私が自分の過去と折り合っていなければ、
鈍感力の実践は難しいかな、と思ったんですね。
仕事にせよ、家庭内の出来事にせよ、
恋愛にせよ、友人知人との関係にせよ、
そこで見聞きする言動に対して、
あるいはその結果生じる感情について、
鈍感になる必要はないと思うのです。
むしろ、そこで生じる感情の奥に潜む、
様々な自分自身との邂逅を重ね、
一体化することで、
自分が自分自身のまま
素直に受け入れられるようになると、
自分と折り合いがついた分だけ、
世の中とも徐々に
折り合いがつけられるようになって、
自分の言動に対する
他人の立ち居振る舞いも言葉も
そういうこともあるかな、
確かに自分も至らなかったかな、と
余裕をもって思えるようになります。
この状態を、
自らを愛する木偶の坊
と呼ぶなら、
その後を生きやすくするための
メルクマールにならないでしょうか。
木偶の坊という言葉は、
決して良い意味ではないですし、
良い響きでもありませんが、
鈍感力という言葉を否定することなく、
うまく実践していくための指標とするなら、
意外なほどに親しみを感じなくもない、
そうは思いませんか。
一歩引いて、
時に至らない自らを認めて愛すること、
これを繰り返していく中で、
苦痛であったはずのいくつもの刺激は
自分の境界の外側で起こる出来事の
一つに過ぎなくなり、
その時には、
外側で起こる刺激を和らげる術を得て
充実し出した内面と共に、
鈍感力を発揮できるようになっている、
ということではないでしょうか。
傍から見れば役に立たないかもしれないけれど、
誰かを、自らをも傷つけたりすることなく、
愛し見守る存在、愛する木偶の坊。
全てではなくても、
そんな一面があればと思っています。
ー今回の表紙画像ー
『季節の終わりの紫陽花』
散歩してたら、まだ花が満開のところがあったので。。。
もう夏だなあ。
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