適当な時にできなかったことを適当にやって、死にそびれないようにしたい

日々の棚卸

 

90歳の方が、

「“まだ”死にたくない」と言うのを

テレビで見たことがあります。

 

まだやりたいことがあるということでした。

 

別の90歳の人が

「老後が心配」と言っていたのを聞いて、

 

いつまで生きているつもりなんだろう、

と言って批判を浴びたのは、

自民党の政治家である麻生さん。

 

人はいくつになっても

健康でいる限り生きていたいものだ、

と言ったのは、

 

第二次大戦終結後も30年間、

残置諜者として活動後、帰国した後の

小野田さんです。

 

それぞれの立場、経験、生い立ちで、

それぞれの感慨があるのだと思います。

 

 

今が苦しくて耐えられそうもないから

死にたいという方はいると思います。

 

そんな相談を受けることもあります。

 

でもやりたいことや、

幸せになる可能性を捨てたい、

と言う方はいないはず。

 

一方で、では具体的に

何をどんな心持ちでどう実践したら

幸せなのか、と問えば、

 

あちこちで語られている気もするけれど、

かといって、再現性をもたらすような

定式化した表現があるようにも思えません。

 

ただ、一つ言えることがあるとすれば、

何もしないことも含めて、

 

今が良くなくて、

今を変えたいなら、

 

今とは違う行動をとらないことには、

変わりようがないことは一つの道理で、

 

それを別の言葉で表現するなら、

適当な時期、年齢、時代に、

適当なことを行うこと、試すこと、

 

なのだろうと思います。

 

それがスムーズにできている人が

いったいどれだけいるのかと言うと、

もう十分満足と言う人はまずいません。

 

誰もが、あの時あれをやっていれば、

という『何か』を抱えて、

今日も生きています。

 

それを感じられないまま、

胸の奥にわだかまっている限り、

今日を生きる力が減じられてしまいます。

 

適当なこととは、いい加減な、

と言う意味ではありません。

 

少しでも、とっかかりだけでも行って、

感触をつかんだり、可能性を感じたり、

できている状態のことです。

 

それはもしかすると、

 

新しい服を着たり、

新しいスポーツを試すことかもしれないし、

 

行きたくても行けなかった場所を訪ねる

ことかもしれません。

 

映画を見たり、

趣味で使う道具を自作したり、

長く会っていない友人と会うことかもしれません。

 

もう無理と思っていた肉親と

もう一度会って話をしてみたり、

 

自分がほっとできる場所を探したり、

安心できる仲間と繋がることかもしれません。

 

結婚、離婚、転職、引っ越しなども

 

よほど人に迷惑をかけるのでなければ、

思い立ったが吉日で、

 

あなたの置かれた境遇、年齢、立場に

束縛されることなく、

 

やれる可能性のあること、

やってみるかと思えること、

やってもいいかも、と思えること、を、

 

“適当に”“試して”みることは

あなたが“考える”よりずっと

重要なことです。

 

結婚、離婚、転職、家の購入などは、

試すというには大きな決断ですが、

 

誰もがそうするから、

などという他者の評価依存ではなく、

 

自分の人生の主人公は自分である

という確固とした想いの上に、

試すことも一つのオプションだと思います。

 

あなたにも私にも、

一つだけ間違いなく

共通していることがあって、

 

それはいつか、

『この世から去る』

ということ。

 

面白おかしいことをやって、

多くの人から認められて有名になって、

大金を稼いで、

 

優雅な暮らしをして、

ヨットや高級車を所有して、

大きな家に住んで、

 

などと言うことがやりたいわけではない、

と言う人でも、

 

もう少しだけでいいから、

という台詞の後には

 

仕事が楽になって、

収入が上がって、

勤務時間が短くなって、

 

好きなことが仕事にできて、

周囲から認められて、

将来の心配が減って、

 

……

 

と、望みは尽きなかったりする

ことがあります。

 

そしてそこからの跳躍を目指して、

人が構築したシステムの範囲で

右往左往しながら、

 

これ以上何をしたらよいかわからない、

と途方に暮れていたりしています。

 

 

温暖化が叫ばれて随分経ちますが、

環境以上に変化するのは、

年齢を経た私たちの感性だと思います。

 

変化すると言っても、

感じ方が変わるというより、

 

ある感じ方を封じ込めて

問題を残す感じ方を前面に押し出すように

生きているのかもしれないということです。

 

本当は、私たちの心を呼び覚ます

様々な要素が日常には埋め込まれていて、

 

例えば、

 

人混みの中でのちょっとした譲り合いとか

帰宅の途に見上げた夕空の美しさとか、

微風の中に漂う金木犀の匂いとか、

 

公園を駆けていく子供の笑顔とか、

川べりの水面のきらめきとか、

森の中を吹き抜けていく風の心地よさとか、

 

一見、自分が置かれた立場を改善するような

損得の意味では何の関係もないことを

感じられる行動を心がけて、

 

“適当に”“試して”みることは

 

実は、人生をより自分に近づける方向に

少しずつ変えていく魔法の行動だと

私は思っています。

 

そこに徐々に育まれる直観力は、

世の習わしのように考えて継続していたことを

 

直感的に察知して変えていく、

あなたの中に眠った感性をも

掘り起こすものだと思います。

 

それはやがて、結婚したり離婚したり、

会社を辞めたり変わったり、

住まいを変えたり

 

そういったところへと波及していくもの

だと思うのです。

 

 

会社員を続けていた父が、

自らこの世を去って、

長い歳月がたちました。

 

父がその行動をとったのは、

仕事上の何かではなく、

家族の関係性の中にあったのですが、

 

やりたいことをやりつくした末の

行動ではなかったろうと思います。

 

家族もまた、有史以前から徐々に、

人が作り上げてきたシステムで、

 

それは家族一人ひとりがより良く

生きられるように機能させるための

場所でもあるわけで、

 

そこで自分が犠牲になってしまっては

意味をなくしてしまいます。

 

子供の時には、

そうすることは難しかったでしょう。

 

極論すれば、生殺与奪の権限を

握られてしまっていたのだから。。。

 

でも、今、あなたは大人です。

全て、あなたが選択してできることばかり。

 

できないのは、

できない理由をつけるから。

 

できない理由を選択したいから。

 

違う、と言い給うなかれ。

 

私たちは自分が紡いできたかつての世界で

成り立つ理屈をつけて、

やれない、できない、としてきました。

 

もうそろそろ、おわりにしましょう。

 

一度に変えるのは大変ですが、

変える行動を継続することはできます。

 

自分が機能することが、

家族にとっても良くなるようにするには、

 

常に自分の中で

“適当に”“試して”みることを

継続することが一つの方法ではないでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『平日の山下公園夕景』

この時間帯は、街が影絵のようになります。

ここはいつもの通り。。。