身売りしないで

日々の棚卸

 

『職業に貴賎なし』と言う言葉があります。

 

誰かから見て、

 

つまらない、

忌避の対象になる、

 

あるいは、

その時代にそぐわない

誉にはならない、

 

そんな職業であったとしても、

 

貴賤はない、

つまり、

 

どの職業が優れていて、

どの職業が劣っている、

 

どの職業が素晴らしくて、

どの職業が素晴らしくない、

 

どの職業が人々のためになっていて、

どの職業が人々のためになっていない、

 

といったものはない、

と言う意味です。

 

資本主義開始の明治期以降に

生れた言葉かと思いきや、

すでに石田梅岩によって語られていたとか。

 

平和な時代に冷静になってみると、

人が求める職業だからこそ、

公に成立しているということなのでしょうか。

 

そう考えてみると、

個々の好き嫌いはあったとしても

トータルとしては誰もが認めざるを得ない、

 

そういう考え方なのかもしれません。

 

『職業に貴賎なし』

 

ただ、ここには一つ抜けているものがあります。

 

その職業に従事する人の気持ちです。

 

身売りが合法たらざるを得なかった昔、

家庭の事情から、

業者に引き取られる少女たちにとって、

 

彼女らが従事する職業が貴いと言われても、

やっぱりつらく哀しかったでしょう。

 

今のように生活保護を始めとする

セーフティネットはなかった時代、

 

否が応でも、そうせざるを得なかった、

そんな時代の話ですが。

 

 

格好悪い話ではありますが、

社会人になって就職したての頃の私は、

会社勤めがとても苦痛でした。

 

勤めることが苦痛なのか、

会社自体が苦痛なのか、

それ以外の要素が苦痛なのか、

 

当時はわかっていませんでしたが、

ともかくも、苦痛だという一点では

疑う余地はありませんでした。

 

何かを達成しようとする意欲も、

何かに守られているという安心感も、

誰かと価値を共有しているという歓びも、

 

一切感じられず、

 

そもそもそれらを感じようとしても、

感じる大元である、

 

心の土台はぐずぐずで、

心の柱はよれよれで、

心の大気は真っ黒で、

 

そんな状態で何かをどうにかしようとしても

何をどうしようもありませんでした。

 

働き始めたのは、

外資系の一流企業で、

 

やっかみをぶつける人はいても、

規模も社会的位置づけも待遇も、

どこにも引けを取らない

 

働くという観点からすれば、

屈指の優良企業だったと思います。

 

具体的な仕事の内容、

上司や同僚との関係、

勤務評価の在り方など、

 

不平を感じるところはありましたが、

心の奥底では、本当の理由ではないことも

察知していました。

 

その時そう感じていたことについて、

 

自分の意に沿わない環境、

自分の意に沿わないタイミング、

自分の意に沿わない現実そのものに

 

苛立ちを感じていたのだと思います。

 

お恥ずかしい話ですが、

とこの節の最初に述べたのは、

そのためです。

 

どんな環境や人の善意も、

自分の意に添わなければケチをつけていて、

振り返って申し訳なかったと思っています。

 

そんな状況下で感じていたこと、それは、

 

原家族の離散にどうしてよいわからず、

生きることそのものへの罪悪感を抱え、

モラトリアムを求めた若造にとって、

 

一言で、率直に、当時の心境を述べれば、

社会に出てどこかに所属して働きだす

ということが、文字通り、

 

『身売り』

 

の心境だったということです。

 

自分から選択しておいて、

職場を悪し様に捉えるのだから、

失礼だったと思います。

 

さらには、この心境を認めること

そのものにもまた時間がかかりました。

 

なぜなら、

似た境遇から自分の世界を切り開いた人は

きっと少なくなかったはずで、

 

そうであるにもかかわらず、

心も体もついていかない自分が

どうにも情けなく惨めだったからです。

 

当時はまだ、

自分に寄り添うという発想もなく、

かつてそうやって乗り切ったように、

 

ただただ自らを咤しながら、

架空の誰かと

比較してしまっていたんですね。

 

それがますます、『身売り』感情を

増幅させるという逆説的な状況を

かためてしまっていました。

 

当時を思いだしながら

つらつらと書いてきた後では

 

今の自分になるまでに、

これまで遭遇した環境に、

何より今も普通に生きていることに、

 

感謝できるようになったことは、

ありがたいことだし、

救われているのだなとしみじみ思います。

 

 

あの頃の私と似た感覚で

苦しんでいる方とお会いすることが

今もときどきあります。

 

決して若い方に限った話ではなく、

時には還暦前後の方でも

そんな方がいらっしゃいます。

 

表面的には、

 

落ち着いて見えたり、

堂々と話していたり、

余裕を持って生きているように見えて、

 

少し詳細な話をしたり、

責任の所在に触れたり、

自主選択の話に入ったりすると、

 

自らの心情を交えてうまく説明できず、

混乱しながら腹を立てたりされます。

 

中には確かに、会社や家庭や共同体の中で、

理不尽な扱いを受けている方もいて、

何とかしなければいけないのでしょうが、

 

それと並行してと言うか、

その前にと言うか、

それらを払拭するために、

 

やっておくことがあるのではないか

と思います。

 

一番大切なことで、

一番受け入れづらくて、

一番拒否感が強くて、

 

でも、

自分と自分の環境と人生を変えるために

必要なこと、

 

それは、あなたは自らを

『身売り』

せざるを得なくなって

 

そこにいるのではない、ということ、

 

あなたは

“自ら”

今を選択している、ということです。

 

腹が立つかもしれません。

哀しくなるかもしれません。

惨めになるかもしれません。

 

でも、これこそが現在位置を、

変化に必要な場所まで移動させるために、

とても重要なことなのです。

 

中には、怒鳴り尽くすばかりの

どうしようもない上司がいるかもしれません。

 

猛烈なノルマとくだらなさを感じる仕事を

抱えておられるかもしれません。

 

明らかに豹変した伴侶と

苦痛の時間を過ごして

おられるのかもしれません。

 

そういった事実をして、

自分が選択したなどとするのは、

プライドと理屈が許さないかもしれません。

 

その時の環境が、事情が、状況が

許さなかったから仕方なしに

そういう選択をしたのかもしれません。

 

でも、それは決して

『身売り』

ではありません。

 

だから、あなたはそれを

変えることができます。

変えるために、できることがあります。

 

仏教でいうところの三毒(怒り、無知、怠惰)を

抑えてみましょう。

 

多少なりとも心が安定する場を求めましょう。

 

素直に弱みを語ることができ、

それが批判されない場を持ちましょう。

 

うまくいかなかった自分を

ほんの少しでいいから慰め、

次はどうするか作戦会議を行いましょう。

 

ゆっくり休み、ゆっくり眠りましょう。

 

自分にとっての達成感、やりがいが何かを

知ることに時間を費やしましょう。

 

一つ一つは些細で、

しかも慣れないうちは上滑りするかも

しれません。

 

でもかつてなかったそれらの実践の蓄積は

あなたを異なる場所へ

連れて行ってくれるはずです。

 

 

私たちが受けてきた教育に

一つ弊害があるとすると、

 

何かをこなして合格したら、

後はハッピーと思わせている

ところかもしれません。

 

いえ、ホントは教育はそんなこと言ってなくて、

 

良い大学に入った、

良い会社に入った、

凄い資格を取った、

 

出世して給料が上がった、

大きな家を手に入れた、

見芽麗しい人と結ばれた、

 

……

 

だから、もう安心だ、という勘違いを

私たち自身がしてしまっていないでしょうか。

 

それは、とりあえず目指したものかも

しれませんが、決してゴール…

ではありません。

 

自分という人となりと気質を知り、

自分にあった場所を得ること、

 

それは少しでも自分らしく生きる上で

必須の条件です。

 

自分にとって必要なこと、

自分が望むこと、

自分が力を発揮すること、

 

それらがセット、一つのくくりとして、

表現できるような環境を

全力で作り上げていくために何ができるか。

 

それを自らに問い続けましょう。

 

様々なノイズが収まってくると、

自ずと答えが浮上します。

 

ー今回の表紙画像ー

『夏が終わったはずの夏の青空2』