疲労を利用してみる

日々の棚卸

 

疲労には種類があると言います。

 

肉体的な疲労

精神的な疲労

神経的な疲労

 

……

 

ネットを検索しても、

本を読んでも、

そう書かれているモノが目につきます。

 

これは言い換えると、

体のどこかの部位がまいってしまう、

ということなのかなと思ったりします。

 

疲労の種類と言えばもう1つ。

 

心地よい疲労もあれば、

もう動きたくないという疲労もあります。

 

疲れているのに話がしたい、

という疲労もあれば、

 

ひたすら眠くて仕方がない、

という疲労もあります。

 

胃腸の疲労もあれば、

呼吸器系の疲労もあれば、

眼精疲労もあります。

 

本当は疲労じゃないかもしれないけれど、

どこも疲れてなくても

疲労ということにしている疲労もあります。

 

疲労ではないけれど、

疲労ということにしている疲労の場合、

 

意識がぼーっとしていたり、

意志に反して体が動こうとしなかったり、

感情が感じられなかったり、

 

ということもあります。

 

ちょっとした落ち込みから鬱状態まで、

程度は様々ですが、

 

その原因が、

 

毎日顔を合わせる上司や先生の態度、

両親の間の葛藤に巻き込まれていること、

どうにも手につかない仕事、

 

などというところに端を発する、

 

症状を疲労とすることもあります。

 

そう考えると、“疲労”は、

大切なメッセージでもあるわけです。

 

この“疲労”、

自分を整えたり、

弱った心を恢復させるために

 

何か利用することはできないか

考えてみました。

 

 

最初に、肉体と精神と神経の疲労があると

書きましたが、

 

どれも原因、つまり疲労が生じるもとを

意味していますよね。

 

神経系は肉体の一部、

 

精神的な疲労もまた、

動作や感覚に出るという意味では

肉体に出る、

 

つまるところ、疲労とは

原因はどうあれ肉体的な症状を呈する、

と言えなくもありません。

 

そして原因が複数ある場合、

特に精神や神経に端を発する疲労は、

 

純粋な肉体的疲労がある場合とない場合で

その重さが変わってくる、

と考えることができます。

 

神経系や精神系に端を発する疲労の場合、

肉体は興奮状態にあるか、

完全に落ちているか、

 

どちらかの状態ではないでしょうか。

 

一方、純粋に肉体的な疲労には、

走ったり、泳いだり、筋トレをやったり

という運動系や

 

おいしいものを食べたり

暖かいものを飲んだり

という内臓系、

 

部屋の掃除や整理整頓なども

(私のように)普段やらない人にとっては

肉体的疲労につながるかもしれません。

 

これらの肉体的疲労は、

 

あー心地よい疲れだ、

というものもあれば、

 

いやいやきつかった!

もうしばらく動けないー

というものあると思いますが、

 

その後で肉体が

興奮状態のままだったり、

完全に落ちたままの状態ということは

 

基本的にはありません。

 

これは経験上からもそう言えると思います。

 

いずれにしても、

眠ってばかり、休んでばかり、

何より『癒されてばかり』では、

 

その程度が重いほど、

残念ながら弱った心の回復は遅れます。

 

医者にかかっておられる方は

薬を飲みながら、

 

そうでない方も

ちょっとしたタイミングを取り計らって、

 

肉体的な疲労を誘う習慣を毎日設けることは

実は回復の何よりの処方箋となり得ることを

お伝えしたいのです。

 

これは、ある意味、

巷でもよく語られていることですが、

 

それでいて実行できない人はなかなか

実行できないことでもあるんですけどね。

 

回復する、自分を良くするために

苦労してでもやった方が良いことの

確かな一つです。

 

ちょっと散歩がてら、街を歩く、

でもいいんです。

 

ちょっと駆け足で買い物してくる、

でもいいんです。

 

お子さんのおられる方は、

一緒にボールを蹴ったり走ったり、

と言ったことができると思います。

 

終わった後に、

つっかれたー、と言いながら

のんびりしようと思えるようなことです。

 

 

少年の頃、毎夜のように

父母が演じる残酷な罵り合いが始まると

そこから逃れるように、

 

家を出て夜の道を走り(ジョギング)に

出ていました。

 

3㎞ほども走ると汗が流れてきて

ランナーズハイが始まり、

走り終わる頃には一息つきます。

 

サッカーをやっていたので、

ナイターの光が漏れてくる学校のグランドに

フェンスを乗り越えて入り込み、

 

夜な夜な練習がてら、

漏れてくる光でリフティングしたり、

ボールを蹴ったりしていました。

 

汗をかきつくすと、

しばらく人気のなくなった街を

適当にぶらつきます。

 

真冬の夜など、

町全体がしんと静まり返っていて、

凍てついた空気が体の心地よかったのを

 

今も覚えています。

 

不思議と独りぼっちだと感じなかったのは、

 

そんな状態の家族であっても、

その形が崩れることはない、

と思い込んでいたからです。

 

その後、家族の離散や肉親の自殺が辛くて

飲酒やバカ騒ぎに走った時も、

毎日の運動だけはかかさなかったことが

 

私の心身を整えてくれていたのだなと

今となって切に感じています。

 

他界した両親は、今は私の胸の中で

大切な存在になっていますが、

 

そんな夜を過ごした時期があったので、

行く当てもないまま、

夜な夜な町に集まる子供たちの気持ちもまた

理解できます。

 

どうか、自らを慈しむことを

心がけてください。

 

自らを慈しむ、とは、

 

心、魂を癒す・ねぎらうことと、

体に適度な負荷をかけて調整することが

セットとなっていることを意味します。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所の花壇』

今秋には咲くという予想なんだけれど・・・。

まだその気配が見られないなあ。