“無理”を降りる

日々の棚卸

 

降りましょう。

 

不要な競い合いから。

被害者の立場から。

自分いじめから。

 

降りると、一時的に失うものがあります。

 

例えば、それまでの

 

立場、

セルフイメージ、

会社の人間関係、

 

もしかすると、

 

収入の一部、

親しいはずの肉親や友人関係、

日々のルーティン。

 

でも、

 

今が行き詰っていて生きづらく苦しい、

このままこの生活を続けるのはもう無理、

自分が貶められているようで辛い、

 

そんな感覚が日々を支配して、

にっちもさっちもいかなくなっていて、

極端な話、もう消えたいというくらいなら、

 

そこには

“無理”の力学が生活の中で

働いています。

 

 

例えば、あなたが会社勤めだとして、

 

毎日凄まじい労働量できついかもしれないし、

やりたくないことが業務かもしれませんし、

周囲の批判に疲弊させられているかもしれないし、

 

…ということ自体は、

実は問題ではありません。

 

理由は人それぞれあるでしょうが、

“無理”の力学が生活の中で働いていて、

その“無理”を守ろうとしている、

 

というところに焦点を当ててみてください。

 

職場で追い詰められて

どうしようもなくなっている、

 

かと言って、

生活があるからやめることはできない、

 

雁字搦めに感じられて、

自分がサンドバッグになったような、

世界中から非難されているような

 

そんな気持ちになっているなら、

その“無理”を終わりにしましょう。

 

その“無理”の一つが、

不要な競い合いではないでしょうか。

 

不要な競い合いって何だ?

そんなことしてない?

仕事は競争だから仕方ない?

 

そんなレベル以前に、

 

凄まじい叱責が飛んでくる?

給料が減らされる?

侮蔑の視線が嫌だ?

 

どれももっともらしく聞こえるけれど、

どれもとても気持ちはよくわかるけれど、

どれもホントに配慮することなのかなと、

 

傍から見ていて思います。

 

なぜかと言うと、

“無理”なことが高じて、

こんなこともう“無理”になってるんですよね?

 

それが、心も体も蝕んでいるんですよね?

 

ならば、

 

評価が落ちる覚悟をしてでも早く帰る、

少しくらい周囲に迷惑かけてでも成果を低くする、

議論や結果で負けそうになっても反発しない、

 

自分ができている者のように振舞わない、

最低限のルールとコンプライアンスだけ守る、

周囲とは控えめに仲良くする、

 

皆さんのおかげで何とか仕事しています、と

頭を下げて、こりゃどうも、とやり過ごす、

自分のプライドを少し下げる…。

 

できない?

いえ、やらない、というか、やってないのでは?

 

だって、“無理”なんですよ、自分自身が。

そこは無視する?

 

そうすることを自分に認めてあげられず、

許してあげられず、

“無理”と言いながら続けている。

 

その“無理”、

行きつくところまで行きつけば、

文字通り、生きるのが“無理”になってしまいます。

 

もう一つ例をあげましょうか。

 

例えば、何かあるたびに、

 

いつも被害を受けていると感じるなら、

そして自分はなぜこんなに不遇なのだと

自分の運と社会や家族史を呪うくらいなら、

 

被害者から降りましょう。

 

先に会社での議論の話をしましたが、

 

人の集まる場でいかに自分が正しいか、

いかに自分が優れているかを主張しようとしたり、

反対にいかに自分に非がないかを説いたり

 

といったことをしようとしては、

自分に非難が集中する、

 

そんなことが繰り返されるうちに、

何か出来事がある度、

それが自分と無関係であっても、

 

自分に非難が来るのではないかと

怖れるようになってしまう、

 

勝手な理屈をつけられて批判されるのだから

自分こそが被害者だとなって

周囲を懐疑の目で見るようになる、

 

そのような見方をしていると、ますます

自分がいかに恵まれていないか

不条理に扱われているかという意識を募らせ、

 

被害者として固定されているように考え、

結果として、

被害者となるように振舞ってしまう…。

 

つまり、あなたは、

いつでもどこでも被害にあっているのではなくて、

いつでもどこでも自ら被害者になっています。

 

怒られるかもしれませんね、

こんな言い方をされたら。

 

でも、ちょっとだけ聞いてください。

 

どんな悪いことがあったのでしょう。

どんな嫌なことがあったのでしょう。

本当にその受け止め方しかないのでしょうか。

 

リストラ、いじめ、家族崩壊、両親の不仲、失恋、暴力、

 

原因が何だったとしても、

それが理不尽であって、

さらにその怒りや哀しみを引きずっているなら、

 

もしかすると、

過去にどうしようもなく辛い経験をされて、

それを投影してしまっているのかもしれません。

 

なぜなら、

もう一度それと同様のシーンを演出して、

その苦しく哀しかった結果を覆すことができれば、

 

のどに刺さった骨を取るように

痛む過去が払拭され、

 

これからを歩いていける、

という意識が働いている

からではないでしょうか。

 

しかし、残念ながら、

それが達成されることはまずありません。

 

投影した問題は、

おおもととは何の関係もなく、

周囲はあなたが抱えるテーマとは無関係に

動いているだけだからです。

 

そして表層に現れるあなたの言動から

あなたを判断して、

あなたがそうであるように対応するからです。

 

もし仮に、そこにメスを入れるなら、

 

問題をすり替えることなく、

その時間に戻って、

その時の自分にしっかりと寄り添い、

 

一緒にどうやったら切り抜けられたか、

どうやって自分を守るか、

納得がいくまで相談し、

 

そんなことに未来まで支配される必要など

微塵もないことを腑に落とし込んで、

過去に戻ってもらうのです。

 

 

最初にふれましたが、

“無理”を降りると、

一時的には失うものがあります。

 

その中で最大のものは実は

自分の内面の感覚かもしれません。

 

ちょっとわかりづらいかもしれません。

こういうことです。

 

なけなしの気力を振り絞ってはいても、

 

何とかやってる自分、

できている自分、

正しい自分を演出していたのだから、

 

それにまつわるプライドや見栄が

表に出たがろうとして、

しばらくの間胸をざわつかせるでしょう。

 

そんなことやってない?

ではこう言い換えましょう。

 

自分が認めてもらえなくて、

どこにいても何をしていても

辛く苦痛な中で、

 

自分の見られ方の基準を

もう一段下げることによって、

今まで抵抗しようとしていた力を

抑えることになるかもしれません。

 

ただ、そこから降りて自分を大切に扱い、

結果として人との繋がり方が変わると、

 

新しいことが引き寄せられるようになります。

 

それは、

 

周囲の人との関係性かもしれません、

職場か恋人か友人かはわかりませんが、

取り巻きそのものが入れ替わるかもしれません。

 

いずれにしても、

あなた自身の内面のつながりの変化が

あなたと世界の新しい繫がりをもたらします。

 

結果として、

あなたは新しい居場所を得ることになるわけです。

 

“無理”なら『降りる』、

そして流れに身を任せる。

 

自分以外の出来事を

不要にコントロールしようとしない。

 

言葉にすればそれだけなのですが、

対抗ってしまうのもまた人の性。

私にもそんなところがあります。

 

だからもう一度。

 

“無理”なら『降りる』

 

それが、あなたをあなたらしい人生に

導いてくれる自然なあり方では

ないでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『少し早い紫陽花』

曇り空の下でしたが、

街を歩くと、小さな花々が咲いていて、

タンポポの子供まで。。。