変化が怖い?

日々の棚卸

 

自分の人生。

一度きりの人生。

かけがえのない人生。

 

これまでの人生を振り返ってみると、

 

うだつがあがらなくて、

哀しい出来事ばかりが続いて、

思い出したくないことで埋め尽くされていて、

 

お世辞にも素敵だとは感じられない、

でも、

このまま終わらせたくない、

 

そんな自分の人生を、

ほんの少しでいいから、

 

今よりましなものにしたい、

良いものにしたい、

 

そして、あるいはそのために、

この日常を、自分自身を変えていきたい、

 

そう切に願うことがあると思います。

 

人生という言葉では重すぎるなら、

その源となる何某かの“想い”を

感じていると思います。

 

何かを成し遂げたいから。

このままでは終わりたくないから。

 

そうやって取り組み始めて随分経つけれど、

なかなか自分が望む方へ向けて

変わっていくことができなくて、

 

ちょっと休憩してみたり、

ちょっと迂回して道草してみたり、

ちょっとだけ他のこともかじってみたり、

 

という、視点を変えてみることを

並行して行いながら、

 

あきらめることなく、

行動を続けているかもしれません。

 

今より、

収入を上げるため、

きれいになるため、

社会的地位を上げるため、

やりたいことを実現するため、

資格を取るため、

尊敬されるようになるため、

 

やれることをやろうと、精一杯動いている…。

 

でも、やっぱり、なぜか、

変われない、変化の兆しが見えない。

 

そのうち、

勇気を奮い立たせたり、

気合を入れ直したりしようとして、

 

どうにも動けない自分がいることに

気づくこともあります。

 

動けないと言っても、

行動はしているのです。

 

ただ、それは、

 

気がついたら没頭していたり、

目標目指して遮二無二突き進んでいたり、

三度の飯より楽しんでいたり、

大切な誰かとの約束に突き動かされていたり、

 

といった自然にとってしまう行動からは程遠く、

気持ちの乗らない行動を、

機械的に繰り返しているばかり。

 

おかしいな、困ったなと、

よくよく己と向き合ってみると、

 

動けない理由の奥底に、

変化することに対してどうしようもなく

恐れおののく自分が見つかってしまった、

 

ということは少なくありません。

 

 

やろうとしていること、

変わろうとしている意志に

嘘はないのだと思います。

 

収入を上げたいのも、

きれいになりたいのも、

社会的地位を上げたいのも、

 

決して悪いことでも恥ずかしいことでも

ないですし、

 

そこで実際に行う仕事は

きっと自分と幾ばくかの人々を

幸せな潤いで満たすためのものだと思うのです。

 

昨今(でもなくなりましたが)流行りの

好きなことを仕事に、などは、

今や圧倒的市民権を得て、

 

大手をふって私たちの人生のいたるところで

目にし、耳にするフレーズですし、

そこにも嘘偽りはないでしょう。

 

では、怖くて動けないというのは、

何かが足りないということなのでしょうか。

 

時間?

お金?

やり方?

 

時間は創り出すとして、

お金も工面するとして、

やり方は本やスクールで学ぶとして、

 

それらのものを工面したけれど、

でも、しかし、結果は変わらず動けない。

 

ここまで来ると、

もう一段階、自分を掘り下げる必要が

あるかもしれません。

 

『自分の本音』というものが

先にあげたやりたいこと、

 

収入や美しさや地位などといった目標の前に

ドンと根を下ろしていて

それをスルーして目標を立てているから

 

動けない、ということは

ないでしょうか。

 

前述の目標なるものは、

もちろんやりたいことではあるのでしょうが、

 

それは外的なものというか、

他者や世間の基準から見て、

達成すると好ましいものですよね。

 

その手前に、自らの本音、

 

例えば、

 

寂しい、

哀しい、

切ない、

 

そういった大人になるほどに

出しづらい、感情を麻痺させがちな

 

原初ともいえる感覚に包まれた

あなた自身を放置したまま、

外的な何かを求めようとしても、

 

それは、自らの一部を切り離したまま

動くことであり、

全身全霊の力とは到底いいがたいことを

わかっている自分の無意識が

 

「おい、ちょっと待てよ」

「これ放置して、なに外面を整えようと

しているんだ」

 

そう言っているのではないでしょうか。

 

きれいごとに聞こえるでしょうか。

子どもっぽく聞こえるでしょうか。

 

寂しいという感覚は、

ちょっとした大人の哀愁なら、

自分が自分に寄り添ったが故に感じる

ものなのでしょうが、

 

望まないまま満たされずに生きているなら、

外的な夢とか何とかを追い求める前に

人、それもまず自分自身としっかり繋がる、

 

それこそが本音で求めていることでは

ないかと思うのです。

 

哀しさも同じです。

 

大切な誰かを失った哀しさ、

自分が十分満たされてないが故の哀しさ、

 

そういった心の飢えをまず満たすこと、

少なくともそういう自分の味方として

しっかり自分自身に寄り添うこと、

 

そうやっているうちに湧き出てくる

ドライブフォースは、

 

必然的に外的な行動へと

自分を駆り立ててくれると思うのです

 

怖いなら、怖くていいんですよ。

それを否認することこそが一番怖い。

 

なぜなら、あなたが『自分の本音』で

求めているものに蓋をして、

あなた自身から隠してしまうから。

 

そのままでは、

いっとき成功なるものを手にすることは

あるのかもしれませんが、

 

間違いなく短期で終わって、

後は寂しさや哀しさを放置したツケが

大きくまわってきます。

 

 

今のままの自分をしっかり

受け入れているでしょうか。

 

様々な自分を統合しているでしょうか。

 

変わるということは、

何を基準にどこに向かおうとしている、

ということですよね。

 

自分の現在地を確認して、

自分の本音と向き合った時、

それは変わりたい先なのでしょうか。

 

今満たすものをすり替えて、

自分より世の中を先行させてしまっては

いないでしょうか。

 

今一度、

じっくりと自らに問いかけてみてください。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『梅雨晴れの空』

午前中はこんなだったけど、

お昼過ぎたら晴れだして、

こんな形の雲が川にかかっていた。

 

蒸し暑いっす。