見知らぬ誰かが傍にいる

日々の棚卸

 

一人になる状況を考えてみてください。

 

もちろん、一人暮らしの方が

自宅にいる時や

 

自らハンドルを握っての

単独のドライブ中は除いて。

 

つまりは、外出時ですね。

 

私は釣りや魚採りが好きなので、

時間があると海や川へ出かけます。

 

仲間と一緒の時もあれば、

一人の時もあるのですが、

 

後者でちょっと僻地の海に出かけたり、

夜釣りだったりすると、

往々にして独りの状況に置かれることが

あります。

 

周囲に全くひと気がないので

夜釣りでヘッドランプが頼りの時などは

とってもきょわかったりします。。。

 

これは登山など山の中に入っていく

状況などもそうなのでしょうね。

 

他には…

ひと気のない公園や森林などもありますね。

 

きっと自然の中に入っていったり、

田舎の方で出歩くと、

外出しても一人になるというのは

ごく普通にあることなのかもしれません。

 

 

いつもと違う場所、

いつもと違うルート、

いつもと違う時間帯。

 

それが例えば

 

通勤だろうと、

散歩だろうと、

買い物だろうと、

 

街中で暮らしている限り、

そこにはたいてい見知らぬ誰かがいます。

 

見知らぬ誰か人というのは、

主婦だったり、

学生だったり、

子どもだったり、

 

サラリーマンだったり、

おじいさんだったり、

おまわりさんだったり、

 

お店の人だったり、

娘を肩車するパパだったり、

特売に駆けつけたお母さんだったり。

 

誰もが心や体に何かを抱えていて、

何かを求めていて、

目的に沿ってそこにいて、

 

あなたとすれ違ったり、

幾ばくかの時間だけ傍らに立っていたり、

同じ方向に歩いていたりします。

 

視線を合わせることもないし、

視線が合っても特に

何か意味を感じ取ることもなく、

もちろん挨拶や会話もありません。

 

私たちは、村社会の時とは異なる

街という共同体に暮らしていて、

公共のルールを守りつつ、

 

外出している時は

ほとんどの場合知らない誰かが

近くにいるという状況にあります。

 

あなたは特に気に留めることもなく、

そんな人々の間に身を置き、

毎日を暮らしているでしょうか。

 

 

先日都心に用事があって出かけたのですが、

激混みの電車に乗る羽目になりました。

 

何とか吊り輪につかまりつつ、

一駅だから我慢しようと

もみくちゃにされたのですが、

 

電車が駅へ到着する間際、

小さな“デキコト”がおきました。

 

ドア付近で姿勢を保つために

ドア上部の出っ張りに手を置いていた男性が

 

間もなく駅に到着するというところで

腕をゆっくりと下ろしたところ、

 

ちょうど男性の前で

斜め向こうを向いていた女性の髪を

軽くこする感じで接触があったようです。

 

手前の人の頭で陰になって

はっきり見えたわけではないのですが、

その瞬間の女性の仕草から、

そう類推できました。

 

男性の腕というか服の袖あたりが髪

に触れた瞬間

 

女性は男性の方を睨みつけ、

まるで汚いものにでも触られたかのように、

何度もぼさぼさの髪の触れられた部分に

付着した何かを手で払う仕草を

2回3回と繰り返していました。

 

知り合いのようにも見えず、

女性は開いたドアから険のある表情のまま

足早に去っていきました。

 

彼女の表情は、

ちょっと虫の居所が悪かった、

という感じには見えず、

普段から何かを抱えている方の

それに見えました。

 

髪に予想外の何かが振れて

腹を立てたというより、

 

不信、不実、不和を抱えて

世の中と接し続けていて、

それがこの時の出来事がきっかけとなって、

表に現れてしまった。。。

 

それを見て、

30年前の自分を見た気がしました。

 

原家族が自らの行いの果てに

バラバラになってしまった頃、

 

街中を歩いても

どこかの建物の中に入っても、

常に人がいて、

 

その状況自体に

ひどく苦しんでいた頃のことです。

 

具体的な誰か、ではなく、

そこに身を置くこと自体で

息苦しさと苛立ちとを感じ、

 

その理由もわからないまま、

自分以外の誰かによって

そう感じさせられているという

大きな勘違いの世界を生きていました。

 

先に挙げた彼女のように

具体的な行動を起こすことは

なかったとは思いますが、

 

兎にも角にも

苦しくて仕方がなかったのは事実です。

 

後に、

 

外に出れば、

必ず誰かしらいる中に自ら身を置きながら

そこに偽りの不信を見出していた裏で、

 

結局のところ、

自分が自分を貶め続けているだけだと

気づくことができたのは幸いでした。

 

自らの中では筋が通っているから、

という理由で、

一方的な“べき論”を

人に押し付けている時、

 

私たちは自らを苦しい場所に

置くことになります。

 

そして、

その裏側で起こっていること、

抱えていること、

思い込んでいることに

思いを馳せることができた時から

徐々に世界が変わっていきます。

 

それは当時の私にも起こったことでした。

 

 

あなたが毎朝通勤しているとします。

毎朝混んだ電車に不快を感じていたので

1時間早い電車に乗りました。

 

でもそれなりに、

少なくない数の客がのっています。

 

さすがに混んでいるわけではありませんが、

思ったより人いきれがあり、

空いているとはとても言えません。

 

もちろん座ることはできません。

 

一番多い乗客は、

年配からわかり人まで、

サラリーマン風の人たちですが、

彼らばかりではありません。

 

高校生ばかりかランドセルを背負った

小学生がいます。

明らかに一線を退いたように見える

お年寄りも何名かいらっしゃいます。

 

もしかすると少し前のあなたなら

そんな光景を見て、

思ったほど空いていない状況に

苛立ちを覚えたかもしれません。

 

でも、そこにいるのは、

何かを抱えて、悩み、苦しみ、

 

決してそこにいることに、

あるいはそうしていることに

歓びを覚えているわけでもなく、

 

それでもその行動を

選択しているかもしれない人々です。

 

もしかすると、

あなたがそうであるように。

 

町を歩いていても、お店に入っても、

同じかもしれません。

 

『袖振り合うも多生の縁』

 

それは、

あらゆるところに当てはめることができ、

それを感じられるようになったあなたは、

平安を一つ心の中に得たことになります。

 

私たちは他者がいないと生きていけない、

などと言いたいわけではありません。

 

ただ、他の見知らぬ誰かは

よほどのことがない限り、

もう一人のあなただと思っていると

世の中が今より少し住みやすくなりますよ。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『鈴鹿山脈』

木曽川のほとりにあるお墓を親類で相談し、

もう少しアクセスの良いところに引っ越すことに。

いわゆる今ある場所の墓じまいをしてきました。

不思議なことに、快晴だった空に急に雲がかかり、

はらはらと雪が舞いました。

名残雪、だったのかな。