少々気恥ずかしい話ですが、
私のささやかな性癖の一つに、
たそがれることがあります。
自分で言うか、とも思うのですが、
本日の話につながるので
とりあえず書いてみようと思います。
★
時々、拙ブログの
アイキャッチ画像に掲載している
写真の中には、
そんな折に撮影した画像が
いくつかあります。
例えば、
町はずれを流れる川の風景。
季節を問わず、時間を問わず、
川べりに赴いて、何となく、
水の流れを見つめていたくなるんですよね。
冬など寒いだろうと思われるかもしれませんが、
私は暑いよりは寒い方が好きなので、
全く気になりません。
むしろ真夏の蚊が舞う時期より、
ずっと居心地が良くて、
対岸の風景を眺めたり、
真冬も群れて泳ぐハヤの子供たちを
じっと観察したり、
散歩に訪れる方々と挨拶がてら
よしなごとの話をしたり、
などということをしていると、
文字通り、あっという間に
2時間、3時間の時が過ぎていきます。
川べりには、意外なほどに
様々な方が訪れるんですよね。
楽器を演奏する人、
絵を描く人、
ボードを操る少年、
デートのカップル、
読書に来る人、
ただ黙って風景を愛でる人。。。
誰もが何かを抱えていて、
川の風景に何かを求めているのかな。
川以外にも、
しんと凍てついた真冬の、
人の気配が消えた夜の街の空気を
吸い込みながら
建物の間から夜空を見上げていると、
川べりとは別の感覚で
そこに居続けたくなります。
もちろん土砂降りの雨でも降っていれば
話は別ですが、
そんなひっそりとした時間に身を置くと、
リラックスして落ち着くことができます。
何をするでもないし、
普段時折やってしまうような、
思い出したくない記憶を
もんもんと考えることもなく、
ちょっとした空想の世界に遊びつつ、
何となくぼんやりとそこに佇みます。
寂しさは感じるけれど、
それは明らかに、
絶望から距離を置いた佇まいです。
要するに感傷に浸りたくなるんですね(笑)
ああ、自分で言うのは恥ずかしい。
でもそうなんです。
その時には、
うまく行っていない日常の自分を
ダメ出ししたり、
自分や他人の批判批評に走るような
批判攻撃的な感情は、
一切浮かんできません。
反対に、
うまく行っていなかった
若かりし頃の私は、
仕事や人の関係で
うまくいかない状況が続くと、
自分か他の誰かを責めながら、
そしてこれまでの境遇を嘆きながら、
その理由を、
自分の生い立ちだったり
特殊な事情に
つなげていたことがありました。
うまくいかない“コト”が起こるたび、
自分の“特殊な”人生は
もっと考慮されてもいいはず、
という身勝手なことを考えていました。
当然ながらそんな状態では、
無意識のうちに誰にともつかない
文句を言い続けながら
自分はおかしくないという
ストーリーを作り上げてしまいます。
それで済めばいいのですが、
だいたいはそれら、
つまり身勝手な考えが巡り巡って、
自分に返ってきて、
またうまくいかないことが起こる、
そういう悪循環があったと思います。
結局のところ、
哀しんだり苦しんだりするループを
自ら作り上げていて、
その輪を断つことなく
繋げ続けているのもまた、
自分自身なのですね。
★
感傷に浸ることと
悲しんだり苦しんだりすることは
当然ですが違います。
どういう風に違うかと言うと、
片や自分を受け入れたていて、
片や容赦なく自分を責め続けています。
後者、つまり再現なく
哀しんだり苦しんだりすることは
実はかなり『厄介』です。
からくりが頭で分かっていても、
継続してしまうためです。
「気がつくと」
「そう感じて」
「そう解釈して」
「だから自分は運が悪い・不幸」
だから、
「まともになんてできやしない」
「きっとさいごはうまくいかない」
などとなってしまうのですが、
この言葉の表現と連動して、
感情が体の感覚となって生じる
ためです。
例えば、
胸をかきむしりたくなるような、
頸が圧迫されるような
下腹が押さえつけられるような、
人によって場所は異なりますが、
“体の感覚”が出来事に対する反応として
でてくることで、
頭で理解した間違いを正すことが
困難になります。
思考の“くせ”とも言われるもので、
その対処として認知行動療法という、
自動思考による思い込みを
認知によって修正するという
手法があります。
うまくいかないことがあって
いつも苦しくて仕方がなくて、
あるいは苛立ちばかりが募って、
などということに対しても、
有効な手法として位置付けられています。
ただ個人的には、
感情と身体の感覚をあわせて対応しないと、
本来の意味で
心身、そして日常が回復することは
ないのではないかと考えています。
いずれにしても、
思考の“くせ”、というより、
感情の“くせ”、であり、
反応の“くせ”、という
傾向を持った人は
“くせ”ものです……。
“くせ”は、
最初は、少なくとも身についた当時は、
仕方がないことだったのかもしれません。
厄介なことに私たちは、
自分が味わう最悪の経験を
二度としないように、
世の中ではそんな経験が
“デフォルト”で起こりえることを
想定して生きるようになります。
必然周囲も、そのように反応して、
結果として悲しみ苦しみを生じる状況が
現実化するわけです。
それをして、“くせ”、といいます。
すぐに変えるのは、
そういう意味で難しい。
客観的に自分を認知し、
自分がどんな問題にどう思考する“くせ”が
あるのかを理解し、
その際どんな感情が湧いているか、
その感情が体のどの部位にどのように
生じているかを感じ、
その部位に対して
フォーカシングなどで癒しながら、
しっかりと認識してあげることを続けます。
すると、
体の感覚が変化していき、
感情は自らが認められたことを知り、
それによって思考も反応も変わっていきます。
“くせ”が変わるわけです。
それをして変化と言います。
理屈で分かる“くせ”ばかりではなく、
感情の“くせ”こそが、
大切に対処する根っこではないかと
切に感じています。
そこに触れる時、
おそらくそれまで理解できなかった、
自身の人生に対して
自分のコントロール感を
手にする感触を得るのかもしれません。
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ー今回の表紙画像ー
『梅雨空?』

先週、
飼っていたウナギの餌を採りに川へ行ったら
ウナギが採れたと書いたけど、
今度は飼っているナマズの餌を採りに川へ行ったら
ちびナマズが取れた。
かわいい。
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