四半世紀ほども前、心理と精神医療の世界を知った。家族の問題がきっかけだった。それよりずっと昔、家族があることを当たり前であると思い込んでいた頃には、単に胡散臭く感じ、近づくことを嫌っていた世界だった。
様々な場所に出入りした挙句、2か所で心理カウンセラー・アドバイザーの資格を取得した。
1つは某精神医療機関を経営する医師が主催の養成講座で1年近くの連続講座だった。毎週末都心まで出かけ、一般的な心理療法の講義から、統合失調症者や大うつ病の患者に参加いただき、クライアントと対峙する際の留意点まで身に着けた。
もう1つは民間の、いわゆるカウンセラー養成講座で、クライアント中心療法や、面接方法など、カウンセリングで必要となる考え方や心構え、コミュニケーション方法などについて学んだ。仕事として行ったわけではないけれど、こちらを知る何人かの要請にこたえ、(大きな声では言えないが当時無料で)カウンセリングらしきことも行った。どこまで貢献できたかはわからないが、彼ら彼女らのその後を見る限り、悪い方向にはいっていないと思う。
学生時代の後半から、駆け出しの社会人としての数年ほどの間、常に何かに腹を立て、世を儚み、返す刀で自分を蔑む日々を送っていた。日々湧き上がる怒りや悲哀といった感情の持って行き場を知らず、最後は自分に向けるしかなかった。社会に向けておかしなことを起こしはしなかったが、他者との間に壁を作り、ゆっくりと孤独になっていった。
感情が破綻しかけた状態で襲ってくる苦しみと痛みに自分が消えてしまいそうになっていて、その状態が先に述べた心理の世界へ自分を導いた。
資格を取得した、と述べたが、そもそもプロのカウンセラーになろう、などという目論見は鼻からなかった。ただ、自分がなぜ自分であるのか、なぜこれほど苦しいのか、どうしたらよいのか、それらを知りたかった。いくつものセミナーを梯子し、貪るように本やネットの記事を読み漁り、行動し、それが原家族からもたらされた価値観によるという当たり前のことはわかったが、それを本当の意味で自分自身の問題として捉えるようになるまで時間を要した。
紆余曲折、試行錯誤の結果、自分のペースで平安に生きる日々を送ることができるようになってしばらくするうち、以前から何となく心の片隅にひっかかっていたことが形を伴ってちらつき、気にかかるようになっていた。それは、あの頃のどうしようもない絶望の闇にもがく自分に今の自分を見せることができるとしたら、そして「そんなに苦しまなくていいよ」「できることはいろいろとあるよ」「そう思い込んでるだけだよ」と伝えられるとしたら、どう表現するだろう、という、自分に対する問いかけのようなものだった。
どうしたものかと、あの頃の自分が陥っていた闇に潜っていると、思いもよらない感覚に体が包まれた。
その時のことをどう言い表せばいいだろう。
言葉が矛盾するようだが、柔らかく研ぎ澄まされて安定した何かが体の外側を包み、内側で寄り添い、自分を守り支えてくれるような感覚と言ったらよいだろうか。確固としていて、満たされるような安らかさの感覚だった。ずっと昔、闇の中で震えながら、与えられるまま安住していた安らかな不安の世界とは異なる、自分自身で湧き上がらせたものであることを悟ったのは少し後になってからのことだった。
それと同時に、「かけがえのない存在」と表現できる感覚が体に宿り、やがて言葉として頭の中に浮かび上がってきた。かけがえのない存在、かけがえのない自分。おそらく、突き詰めれば、それをかつての自分に伝えたいのだと思う。
しかし、それだけで彼は、納得してくれるのだろうか。
言葉を伝えただけでは、聞く耳を持ってくれないような気がする。そのくらいには、あの頃の自分はどうしようもなく人も自分も信用なんてしていなかったし、それがなぜかもわからないまま、これ以上大切な何かが壊れてしまう恐怖に怯えていたから。そもそも、それらをしっかりと認識するための感覚を麻痺させてどうにか日常をしのいでいたし。どれだけ真剣に、君はかけがえのない存在なんだ、と、伝えられたところで、きっと胡散臭さとともに耳をふさいでしまったような気もする。
それでも、今の自分にたどり着くきっかけとなったのは、言葉だ。だから、大切な「かけがえのない自分」のために、言葉を紡いでいかなければ。それが、このページを立ち上げるささやかなきっかけになった。
この、「かけがえのない自分を生きる」ことを心がけ、その実践を徐々に実感できるようになった頃、私はあることに気づいた。それは、一度は失ってしまったと思い込んでいたメロディが今も私を取り巻く世界を包むように流れてくれていることだった。一度は、自分の人生を“不幸”の一言で片づけ、ないことにしてしまっていた、いくつもの素敵なシーン、大切な人々、気持ちのいい季節、美しい風景、心地よい疲労、美味しい料理、柔らかな匂い、懐かしい音、未来へのささやかな予感・・・・・。そういった自分を取り巻いてきた数えきれない要素が今の自分を形作っている、そう実感し、過去とつながり直したとき、自分はどこへでも行くことができる、そう確信した。
自分の過去と現在と未来はいつだってつながっている。何かが人生を揺さぶり、先が見えずに身動きが取れなくなってしまうとき、つい人は過去のダメな部分に焦点をあて、自分がここまで生きてきた勇気の部分を否定しがちだ。でも、生きる、ということに自分自身であることが含まれるなら、これほど肯定する要素はない。
かけがえのない自分を生きること。それは、この不確かな世界の中で、自分の人生を自由に生きるための標であり、豊かさの前提であると思う。
かけがえのない自分を生きることが実践できるようになる時、今の私がそうであるように、あなたもまた、どこへだって行くことができるようになるはずだ。
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