大切な人に人生を預けない

日々の棚卸

空回りして望んだ結果が得られない、という経験は誰にでもあると思います。  仕事の内容がどうにも合わない、職場の雰囲気が居づらい、給料が安い、意志疎通がうまくいかない、上下関係がやたらに厳しい、ママ友関係が息苦しい、夫婦でうまくコミュニケーションが取れない、成人した子供が引きこもってしまった、父親がアルコール依存症でDVだ、などなど。
挙げればきりがないものですが、どれもそのままでは苦しいから、少しでも良くなるようにと、それなりに対処を試みます。仕事ができるように勉強して、もっと自分に合った仕事を求めて転職して、資格を取って、周囲とコミュニケーションがうまくいくように立ち居振る舞いを変えて、家族の関係がよくなるように夫(妻)をなだめすかして、あるいは自分の感情をはっきり伝える必要があると啓発されて怒りをぶつけて衝突を繰り返すようになり、落ちこぼれた子供が世間に戻れるように世話を焼いて、父親がお酒を飲みすぎないように酒瓶を隠して、叩かれれば家から逃げ出して病院にかけこんで・・・。
そうやって手を変え品を変え対処して、何某かの望んだ結果が得られたのであればそれでいいと思います。ですが多くの場合、ことにこのページをご覧になっている方の場合、むしろ次の状態にあるのではないでしょうか。
いろいろと試してみたつもりなんだけど、何だか実情は一向によくならない、目の前の問題は解決したはずなのに胸のわだかまりが全く消えていない、対処しようと動き出したいけれど、焦りと憤りに支配されたままグズグズとして動き出すことができない・・・。

このようになってしまうのは、本当に自分が解決したい問題に焦点をあてずに動こうとしているためではないでしょうか。灯台下暗しではないですが、大切だと思っていた何かを、ある都合のもとに置き去りにしたまま、目先の見えやすいものに反応し続けたところで、本質的な変化が訪れることはありません。心も体も本能的にそのことをわかっているから、きちんと反応してくれない、と考えるとわかりやすいでしょう。

そんなときは、一度、深呼吸をして、今の感情を媒介に自分を見つめなおしてみることが必要なのだと思います。

感情 - あなたが心・体の奥底で感じていること、これはあなたの大切な世界にたどり着くためのキーワードであり、接続詞です。特に、心の奥底に押し込めていたために、日常に押しつぶされそうになりながら蠢いている感覚があるとすれば、そこに何かがあると思った方がいい。本当は別の大切な問題がある一方で、今、問題と思い込んで対処しようとしていることはそのメタファー(暗喩)である、ということです。
ご存知のように、家族の中で父親や母親から教え込まれた価値観は、実社会に出た時、自分の周囲に対する見方、受け止め方のもととなります。父親や母親もまた、両親や世間から自分とは何者か、男とは女とは何か、世の中とはどういうところか、を学ぶし、それは時代ごとの社会の在り方によっても変わります。
そして、そんな見方、受け止め方、考え方は嫌だ、おかしい、と思いつつ、それを忠実に守って行動することが、実は家族(多くは両親)の関係を破壊させない方法だったりするから、あるいはその場における仮初の心の安定と安全を図る手段であったりするから、学習を拒むことは不可能に近いものです。

そうやって繰り返し吸収した価値観は、それを強化するような行動と解釈を繰り返すことが基本的な人のパターンなので、齢を取るにつれ、きっかけでもない限り疑うことさえしないようになります。しかも、運よくおかしいことに気づいた自分が、そのおかしさを育成歴のせいにしたところで、問題は何も解決しないことは今となっては自明のことです(一昔前には、親に怒りをぶつけてみろ、などということがまことしやかに推奨されていたようですが)。

本来対処したい“何か”とは、自分の中のモノの見方、行動の仕方を形作っている価値観のうち、今の生きづらさに関連する部分そのものです。目先の問題はどれも、その「結果」ではないでしょうか。

もっと根底にあるのは、自分の大切な人々や世界を守りたい、助けたい、そして自らの心の平安を獲得したい、ということだと思うのです。
その大切な彼ら彼女ら、あるいは何かのために、私がこの社会の中で何者かであればよいのだ、というところこそが、ここで取り上げたいことで、また問題のすり替え=勘違いが起こる場所でもあります。そして、大切な人に人生を預けない、そう題した理由でもあります。

もちろん時にはそれが必要な場合もあるでしょう。例えば、出産時の女性は普通であれば夫や両親に依存する部分が出てくるのは当たり前のことだと思います。あるいは、子供には保護者が必要ですし、心身に障害のある方々をサポートするのは至極当然のことです。

ここで言いたいのは、対等な大人同士の関係についてのことです。

・自分に合った仕事なら、もっと生き生きとした人生を送れるのでは
・もっと収入が上がれば、人に馬鹿にされないのでは
・もっと明るくふるまえば、職場でうまくコミュニケーションが取れるかも
・もっと気持ちをはっきり伝えれば夫(妻)は変わるかも
・もっときちんとご飯を作って話をすれば、息子(娘)は働きだすかも
などなど。

どれも、もっともっともっと、ばかりですね。

これらの考えは、間違いというわけではありませんが、適切に、何かと何かと何かを行った後の話ではないでしょうか。その前に、見つめなおす必要があることがあって、それは自分の存在とその受け止め方だと思うのです。有効に機能している家族では、それぞれがこれを満たすような関係を紡ぎ続けているから、自然にかけがえのない自分を前提とした世界観の中で、人生を歩むようになるのです。

 

肉親や伴侶、そして何よりもここまで生きてきた自分を何とかしてやりたい。もしかすると、言葉には、あるいは意識の遡上にさえ上らないかもしれないこの想いこそ、私たちが人の中で生きる術と幻想をもたらしてくれているものです。本当に、誰にとっても大切な感覚だと思います。幻想というと何だか宗教染みて胡散臭く感じる方もいるかもしれませんが、本来、幻想を持つことはとても大切なことです。これについては別の機会で触れようと思います。

くどいようですが、よくなるためと思って行っている努力なり生き方が、逆説的にあなたの心をがんじがらめにしてしまっているのなら、これまでの生き方を見つめ直してはどうか、という提案をしてきました。自分を見失ってしまっていること、それが自分だけでなく自分の大切な、本来の問題を解決してあげたい人々までをも良くできないどころか、場合によっては追い込んでしまっているのであれば、それは自分の人生を他者に預けてしまっていることに他ならないのではないでしょうか。そして、他者の人生を自分で預かってしまっているのではないでしょうか。会社のため、お世話になった人のため、親兄弟・子供のため、大切なあの人のため、と言って行う行為が自分を苦しめ、他者との関係をおかしくしているのは、実はあなたの人生の責任を他者次第にしてしまっている、と言えます。自分がどうしたいか、どう生きていきたいか、何を大切にするか、それに沿ってどう生きるか、などを、見つめなおす作業が必要な時なのです。

それができずに、目先の問題に煩わされている間は、実はその行為も結果も、あなたを含めて誰のためにもなることはありません。誰かのためになることが、別の誰かのためにはならない、ということはそれほど多くないのです。長い目で見て、本質的な流れを知るならば、たいていの人(や組織)がより良くなるために、向かう方向はそれほど変わらないはずですから。
ですから、こういった流れを断ち切るためにできること、それは、日常の中に自分自身を取り戻して生きていくこと、目先の問題や、表層的な世間の価値観、仕事観に押し流されることなく、自分がどう生きていきたいかを自分に問いかけ、自分なりの答えを導きだし、それに沿って行動することにつきます。

他の誰か、ではなく、自分、なのです。

自分が生き方を決めることができるのは、他の誰でもない自分自身ですし、その実践こそが自分のかけがえのなさの裏返しでもあるからです。
それが実は結構難しいことであるのは、私自身を振り返っても容易に理解できます。人の中で生きていて、それぞれの人がその人の認識できる範囲で一生懸命に生きている世の中で、世間の価値観や仕事観に押し流されることなく、というのは、少なくとも力んで頑張ってできることではないからです。私自身、そうやって押し流される中であがいて、ようやく今こうやっていることができるのですから。

人は自分を大切にする人に、同じように大切に接してくれます。そして自分を大切にする人は同じように人を大切にします。その循環の中で、少しずつ、かけがえのない自分を生きていくことができるのではないでしょうか。