先日、買い物中に母親らしき女性が男の子を叱っている場面に遭遇した。男の子は6,7歳くらいだったろうか。「だって・・・」と泣きじゃくる男の子の手を握りながら、女性が「だってじゃないでしょ、言い訳する子はママ嫌いよ」とちょっとした剣幕で声をあげていた。
こんな小さな子供に言い訳するなもないよな、と思いながら横を通り過ぎた。場所はスポーツ用品店の成人男性用ジョギングシューズ売り場で、近くに父親らしき男性の姿は見えない。シュールと言えばシュールな構図だが、それはともかくなぜか“言い訳”という言葉が頭の隅に引っかかった。愛用している黒字にオレンジのラインが入ったア〇ィダスのシューズの底が割れかけていて、新調しようとウキウキして買い物に出かけたので、ちょっと出ばなをくじかれた感じだ。
言い訳、いいわけ、イイワケ・・・・・。
誰もがどこかでやった経験があること。
年端もいかない子供の言い訳はなんだか微笑ましい。
言い訳は、どこにでも転がっている。
困ったことに力の強い者の言い訳で弱い者が追い詰められることがあって、テレビで、会社で、あるいは家の中でも目にするとやりきれなくなる。
さらに困ったことに、そんなとき力の強い者は自分のことを被害者と位置付けている。
断っておくが、言い訳は悪ではない。ほんとに気が狂ってしまいかねないほど苦しいのなら、周囲への影響に配慮しつつ一時的な避難場所として必要だと思う。時には笑いを取ることだってできるし、人とのコミュニケーションを弾ませる道具にだってなることもある。
問題はその後だ。
大方の場合、そこを新しい住処と決めてしまい、一生を言い訳に終始して生きるようになる。
かくいう私もまた、そんな状況だったことは隠しても始まらない。原家族に起こった様々な出来事とそれに翻弄されて起こした人との軋轢は、当時の自分にとって無気力になること、腹を立てることの十分な言い訳だったし、誰かに分かってもらうことで自分に不足している自尊心を補ってもらおうとしていた。誰かとは、身近な人であり、評価する社会の仕組みであり、権威となる組織やネームバリューであり、収入や容姿のことだ。だが、自分の状態をいくら理解したところで、自分の感覚・感情が好転することはなかった。なぜなら、原因は既に過去のことであり、今もそれを保持しようと試みている(つもりは毛頭なかったけれど)のは自分に他ならないからだ。
これに気づくのは後になってからのことだったが、いずれにしても言い訳の世界を脱し、自らの感情・世界観を変えていかないことには、どれだけ原因を追究しても、何かを責めても変わらないことだけは、朧げに感じ取る程度にはなっていた。心理の世界を学んだことが、この「朧げ」にでも感じ取る上でささやかながら貢献してくれた気がする。
その時から、重い体と批判腰の世の中の見方を携えつつも、少しずつ動き出すようになった。最初は動くだけで苦しい、嘘くさいと感じて吐きそうになりながら、人との接し方、出来事の受け止め方を変えるように意識し、あちこちに出向くようにした。
行動の詳細は別の機会に譲るが、一歩踏み出すと、世界は変わって見える。一歩踏み出して、自分が変わったからだ。もう一歩踏み出すとまた少し変わる。
元来の習慣化する性癖が功を奏し、繰り返し行動し続けた。その間、自分と世界との間の親密さは遅々として進まないこともあれば、一足飛びにフェーズが変わったと感じたこともあった。
身に起こった出来事によって人は心持を変えるが、その時の変化の基準は自分の評価とその人の世の中の見方・捉え方によることが大きい。感情の選択さえそれらに大きく影響される。
私たちは学習する動物だ。起こった出来事に対して、自分がダメな人間だ、あるいは自分には碌な人生はない、と繰り返し認識し続けることで、どんどんそれを実現していく。その流れが不思議なほど簡単に形成されるのは、そもそもそういう見方を利用して自分を世の中に位置付けてきたからで、考えてみれば理不尽なことだ。
仮に自分が甘くならないように厳しくすべくそんな見方をしていたというのであれば、それは心身が健康な状況で具体的に目指したい目標がある場合に限定的に行えばよい。これに対する反論も、その予測できる反論に対するこちらの反論もうじゃるほどあるが、ともかく自分がより良く生きるための厳しい見方が自分にガタをきたせているなら、それは本末転倒だ。
ということは・・・。
私たちができることは、自分に対する見方を変えること、これにつきる。
うまくいっている人というのがどういう人のことかは人それぞれだろうが、その人が自分と異なる世界を生きているわけではない。あるいはこちらから見て目も当てられないほど悲惨な状況にいる人もまた、同じだ。それぞれが意識的・無意識的に世の中をどう見ているか、起こった出来事から自分をどう認識するか、によってその人にとっての世界が出来上がっている。
だからこそ、オギャーと生まれたときからキュートで素敵な自分は今も素敵で魅力的なのだ、と自分を認めるところから始めるのだ。確かに、1回や2回言い聞かせたから変わるものではない。昔の自分を振り返れば、それがどれだけ胡散臭くて吐きそうで格好悪くてみじめったらしく感じるかわかる。だが、繰り返すが人は学習する動物だ。ここでいう学習とは、洗脳と言い換えてもいい。子供は洗脳されて大人になるのだ。自分に伝わってくるメッセージが刷り込まれただけ、私たちはあたかも最初から自分がそうであるかのように生きようとする。
コマーシャルでジュールベルヌを引用している通り、人が想像できることは人が必ず実現できる。もちろん、一朝一夕ではないかもしれない。そしておそらく自分にどこまで帰結できるか、にもよる。だが、自分が変わろうと思うなら、それは実現できる。
子供の頃から刷り込まれた世界観を変えることはある意味身を切るほどつらい。だって、その見方を基準にして生きてきたし、大切な人と接してきたのに、見方を変えるということは、そこで培った愛着感をも喪失する、つまりたった今ショックを受けたのに、続けてショックを受けるように感じることになる。
だけどね、そうしている限りあなたが感じる苦痛は続く。
そして、それを脱するために大切な言葉、物語をあなたに対して『染み込ませる』『内在化する』ことができるのは、『あなただけ』なのだ。
共感のメッセージ、メロディ、映画、漫画、恋人の声、カウンセラーや医者の言葉、なんでもいい、世の中にはあなたがもう一度あなた自身を生きるために必要なメッセージは、あふれている。それを感じ取るときだって十分にある。
でも、それをあなた専用のメッセージとして、皮膚感覚に宿すことができるのは、
この世にただ一人!
あなただけだ!
いいかい?
ここはあらゆる意味で肝だよ。
あなたには、原風景がある。
それは過去から今のあなたを一体化させることができるし、誰のためでもない、あなた自身の内側から生きる力を湧きだたせてくれる。
そして、素敵な存在として生まれてきたあなたがそうやって生きる力を秘めている以上、今だって素敵でないわけがない。
それは、世界の構成なんかで変わるものじゃ断じてない。
この世界は、あなたが生きる物語だ。なら、自分が幸せになるストーリーを描こうよ。
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