手放すことを学んだ日

日々の棚卸

何かをしようにも手につかない、冷静に考えられない。気が付くと“あること”ばかり考えている。いや、そんな生易しいものじゃない。もうその“あること”に心を奪われ、そこから湧き上がる感情が頭の中を、体中の血管を、胸の隅々まで駆け巡る。もうすでに、相当のダメージを負っているというのに、その感情が自分の中を占領してしまって身動きが取れなくなっている。果ては暴走さえして・・・。今回はそんな話です。

 

自分の中を駆け巡る感情が、明日のデートの想像だったり、大金が入りそうな可能性のドキドキであれば、眠れないほど落ち着かなくともそれはそれである種の嬉しい悲鳴だと思う。もしかすると結果は取らぬ狸の何とやらとなるかもしれないけれど、取らぬ狸を想起して心が躍るなんて、重度の依存症者でなければ健康な証なのだから問題視することもない。

しかしその一方で、そういった喜ばしい状況とは無縁の、呼吸困難を感じるほどの息苦しさ、苦痛、憤り、あるいはその派生としての絶望感に取り込まれてしまっている人もまた少なくない。誰かのせいにするにせよ、自分を責めるにせよ、傍から見ればその感覚を継続させるためにそうしているとしか思えないほど、“一途に”その世界に留まり続けているように見えてしまう。

  • 妻の態度に際限ない怒りと蔑みを募らせる夫。
  • 夫の傍若無人な振る舞いに泣き続ける妻。
  • ブラック企業で鬱やパニックを発症しながら文句を言い続ける労働者
  • 親の言動に打ちひしがれながら憤るばかりの成人した子供
  • 集団にのけ者にされながら居残る若者

 

対抗しようとしているうちは、間違いなくその世界に居続けることになる。対抗することは、“その”関係を続けるという意思表示だ。

ほんとは、その場で済んで、後は仲良く生きていけるならいいのだけどと思って見ていることもあるが、どうもそうではないらしい。苦しいだろうな、と思わず同情したくなるほどの涙ぐましい努力をしながら“そこ”に留まり、何を求めているんだろうと時折考えてしまう。

 

いえ、ほんとはわかっています。私だってまだまだそんな偉そうなこと言えた義理じゃない。

怒っているあなたは、泣き崩れているあなたは、憎んでいるあなたは、落ち込んでいるあなたは、正しいんです、きっと。

そりゃ、そうなるよ。

そんなこと言われ続けたら。

そんなことやられ続けたら。

そんなところにずっといたら。

 

冗談抜きで本当によくわかります。この書き方を嫌味と取らないでいただきたい。

つらい!

ほんとなら、とっととやめてしまいたい。

でも、そうなってしまうんだ。

どうしようもないんだ!

・・・・・ほんとはそんなことはないのだけど、その時点の自分ではどうしても選択肢が限られてしまう。社会的、法律的、物理的に制約されるのではない。受け入れ切れていないいくつもの自己が他者に投影して作り上げた世界観の小ささが、本来はあるはずの多数の選択肢を“あえて”除外してしまっている。

もっと恐れずに言わせていただければ、

怒り続けているあなたは

泣き続けているあなたは

落ち込み続けているあなたは

その行動を、感情を選択しています!!!

選択は決して希望通りではないのだから、そう言われるのはきっと心外だというなら、学習したとおりに生きている、と言ってもいい。

 

これだけ苦しんでいる相手に向かって、それも今にも体が、心がバラバラになってしまいそうな、あるいはすぐにでも心臓が止まってしまいそうなほど心身が悲鳴を上げているこの私に向かって、なんてひどいことを言うんだ。あなたに何がわかるというんだ!

そういいたくなると思う。

しかし、考えてほしい。

その行動で、その感情で苦しんでいるのは、誰だろう。相手ではなくて、他ならぬ自分自身ではないか。何が原因であれ、どんなロジックの積み重ねであれ、結果として今のその”どうしようもないんだ“というその状態によって痛めつけられているのは自分自身だ。

だから、少しだけ想像してほしい。

今のあなたの生き方が巡り巡って自分ばかりでなく、例えば身近にいる幼い子供をも苦しめているとしたら、それでも続けますか。

それが明日をも知れない病と闘っている人を苦しめているとしたら、続けますか。

あなたの大切なたいせつなあの人を死に追いやろうとしているとしたら、それでもまだ続けますか?

・・・やめようとするよね、きっと。

自分が選択した感情や行動じゃないから、といって言い訳なんてしないでしょ。

言い訳、などと言う言葉を使ってごめん。でも、そう受け止められるだけの力があるからこそ、そんなに苦しんでるんだよ。

・・・そう、残念かもしれないけど、その言動は、感情は、私たち自身が選択しているんだ。聞いたことがある人もいると思う。

悔しい?

哀しい?

自分が情けない?

そう感じられるなら、もう自分で変化しようとしてるところまで来ているよ。

今のその胸の中に渦巻く感情は、誰かのせいで持たされているのではなく、かつて見聞きして体験して『学習』したことをもとに自分で選択しているとわかってほしい。

あれはおかしい、あれはひどい、あれは変だ。

だから、哀しい、苦しい、イラつく、無性に腹が立つ、頽れそうになる・・・。そこまでは自分の中に湧いてくるものだから、仕方がない。その段階でコントロールできるものではないしね。

だから、今抱えている感情を否定しろ、と言っているのではない。感情に罪はない。

彼らは、誰よりも早く正確にあなたにとっての今の状況をあなたへ伝えてくれているのだ。どうにかならないかな、と。それを変えられない、としているのは他ならぬあなた自身だ。

前回書いた自分を受容することの一つは、湧き出てくる感情を否認・否定せず、率直に受け止めることだ。間違っても、そんな感情を持った自分を責める必要はない。もし責めてしまうのであれば、そんな自分をもまた受け止めてあげてほしい。

 

ただ、その上で、“そっと”やってほしいことがある。

 

今あなたの中に渦巻き、あなたを苦しめている感情、あなたが昼も夜も捉われ続けている感情、自分や他人や会社、集団に向けて暴れまくっているその感情を、そっと手放すことを試してほしいのだ。“そっと”と書いたのは、力づくてやったところで何の解決にもならないからだ。

そして、手放そうとしてどうしてもできない時、それでも手放すことを試みようとすると、別の何かを変える必要が出てくるかもしれない。それはこれまでにはなかった行動や考え方の選択肢だったりするかもしれない。思考をめぐらせているうちは、それは無理、それはまずい、と考えてしまう類のものだってあるかもしれない。

でも、あなた自身が、あなたの大切な人が、今滅びに向かっているのなら、それは新しい世界に向かう機会を知らせてくれていると思わない?

 

はじめて“手放す”ことを実践したときの話をさせていただく。

眠れぬまま、まだ暗い街を抜けて半島の先まで釣りに出かけた、ある明け方のことだ。父の自死からしばらく時が経過した頃のことだった。

長く離れたままの存在だったけれど、それでも父のことはあちこちに投影していたのだろう。当時の職場の上司に対して凄まじく腹を立てている(と思い込んでいた)日々が続き、精神的にすっかりまいってしまっていたことがあった。仕事時間も私生活の間も頭の中に浮かんでくるのは彼の「卑怯」で「被害者面」で「傲岸不遜」な態度で、あれがおかしい、これは変だ、という理屈とそれに付随するように怒りというより憎しみに近い感情が体中に渦巻いていた。会社の彼に対するその後の処遇を見れば、あながちこちらの感じ方が間違っていたわけではなかったようだが、それはずっと後の話で、とにかくその時の自分の状況を何とかしないと心か体のどちらかが壊れてしまうと率直に感じていた。実際、友人と話すと、全くそんな素振りは見せていないつもりだったのに「何をそんなに腹を立てているんだ」とよく言われた。ウイークデーは体の節々に痛みが生じ続け、病院でも原因がわからずじまいだった。

ずっと以前から、知識としては知っていた『手放す』ことを実践したについては、別に気合を入れて準備をしてそうしたわけではない。ただ、釣りの準備をするでもなく夜明け前の波止場に立ちつくして、少しずつ明るくなってくる空を見つめていると、そんな感情に苛まれることなく皆と一緒にいた日々があったことが思い出された。年の瀬の明け方は気温も低く、休日に多く訪れるはずの釣り人の影も見えない。真冬の明け方にたった一人そうしていたことがきっかけだったのかもわかならい。理屈ではなく最初から用意されていた答えのように、その感覚が自分を包み込んでくれた。

今自分を苦しめる役割に陥っているこの感情は、きっとこれまで自分を守り続けてきてくれたものだ。ただ、自分の主張が100%正しいとして、その結果生まれてくる感情に罪はないとして、それでもこの感情によって自分がパニックのような混乱に陥り、どうしようもないほどパフォーマンスが低下し、自身がおかしくなりかけているのなら、手放す時が来たのかもしれない、だから、そっと手放してみよう、そう思った。

胸の中の不定形の塊が、ゆっくりと上昇し明け方の空に溶け込むように消えていった。それと前後して視界に映る天空が青く輝き始めた。言葉にすると、たったそれだけのことだった。

その日以降も必要に応じてそんなことが繰り返された。時には、心の集まりの場に出かけて、そのこと、つまり自分を苦しめている感情を手放す話を繰り返した。

感情がそうであるように想像の対象もまた選択される一つであることを考えれば、自分の中の自分が必要としてそうしているのだと思った。繰り返すうち、捉われていた心に柔らかさが戻りだし、徐々に人との接し方にも変化が起こった。

手放すことを続けると、そんな気持ちのよい感じに包まれてくる。人生はこの繰り返しでもあると思う。