人生は儚んでばかりもいられない

日々の棚卸

何をやってもうまくいかないと感じるときは誰にでもあるでしょう。なんで、どうして、こうなってしまうんだ、夫は、妻は、上司は、友人は、彼は、彼女は、どうしてああなんだ、なぜこんなことが自分にばかり起こるんだ、お先真っ暗だ・・・。

一歩ひいて冷静に考えてみれば誰にでもあることだとわかるはずなんだけど、でも起こっているときは自分だけで最悪、この矛盾した受け止めを感情としてうまく処理しきれず、身動きが取れなくなっている。かくいう私自身がそんな状態を過ごしたもので、その頃は怒りを通り越してもう何をやっても駄目だと自分の先行きを儚んでいたこともありました。

 

生まれて、育てられて、ある頃に物心ついて、紆余曲折あって、なんらかの理由で自分を蔑むようになっているんだと思う。

自分を蔑んでいることに気づくと、社会で生きていくパワーを削がれていることにも気づいてしまうから、身近な誰かに腹を立ててうまくいかない原因に仕立て上げている。

たいていは親兄弟か伴侶、ナントカ友、そして会社の人。

時々、それもおかしい、でもうまくいかない“事実”を目の前に、徐々に人生そのものを儚むようになってしまう。

 

自分は不幸。

自分は被害者。

自分は無力。

 

巷でどういわれているかはともかく、この場ではこう思ってしまうことを否定しないし、批判もしないです。そう思ってしまうのなら、当面は仕方がない。

ただ、もし本当にそう感じているのなら、それを率直に受け止めてほしい。自分をかけがえのない存在と認識するためには、そこは避けて通れないのです。ここをすっ飛ばして、いやいやそんな思い込みは変だよ、とやってしまうからおかしなことになってしまう。

「思ってしまうものは仕方がない」

ここから始めよう。

 

ただね、それでは悔しいのも事実。

自分の病魔性に

自分の感情の暴走に

自分のみじめさに

自分の不幸に

のっとられたまま、

まるでそれが自分そのものであるかのように、

いつの間にか自分自身を見ている。

とても哀しい。

とても寂しい。

とても悔しい。

 

そうやって生まれてきたわけじゃないでしょう。

そんなことを実現するために生きてきたわけじゃないでしょう。

そんな未来を現実にするために生きているわけじゃないでしょう。

 

だからね。

自分を蔑んでしまうなら、世を儚んでしまうなら、“最初は”それでもいい。

ただ、一つだけ次のことをわかってほしい。

嘘はなかったんだ。

今、何かに怯え、怒り、苦しんでいる自分になってしまった理由、それは何かを信じたからだし、そこには嘘の欠片もないんだ。信じたものが心のどこかで胡散臭いと感じていたとしても、何かのために、誰かのために、それを必死で信じ込んで生きたんだ。そこに、嘘は、ない!

だから、そんな自分を叩きのめそうとしたり、蔑むなんて、おかしなことだ、と気づいたら、少しずつ、そんな想いを修正して生きよう。

 

ほんとは物心つく前からずっとそう。全部自分で決めているんだ。

他責にしたのも、いいことは周りのおかげ、悪いことは自分のせいと解釈したのも、何もかも自分の力と思い込んだのも、親が悪い、生い立ちがかわいそうすぎる、だから今こうなんだと思い込んでいるのも。

 

わたしたちは皮膚感覚に宿った感情・想いを少しずつ、自分を受け入れる方へ変えていく旅の途中だ。だから、そこにはいろんなフェイクがあって、気づきがあって、感動もあれば怒り哀しむことだってある。

でも、それは全部自分のものだし、それを逃げることなく受け止めて、自分の一部と認めて、自分を生きる糧にする時が来ている。

それが、自分自身でいるためのコツのような気もする。

 

いつ終わるかわからない人生だけど、自分で終わらせようとしない限り、強制終了はない。ただ、儚んで生きているうちは、誰かに何とかしてもらいたがっているときだ。

やりたい人はそうすればいい。それはそのまま自分と大切な人と過去とを、これからも蔑み続けることになってしまうことだけは、知っておいてください。

誰から何と言われようと、かけがえのない自分。これからの人生を何をして生きるにしても、もう一歩だけ、自分に寄り添って生きよう。