時間泥棒と自己の変化

日々の棚卸

ミヒャエルエンデの『モモ』のことを養老先生の本で読んで以来、時間泥棒という言葉がずっと頭の片隅にあった。かなり前のことになるが本を手に取る機会があり、岩波少年文庫版のページをめくると、(少年文庫だから当たり前だけど)子供が読みやすいようにひらがなが多用された文章で綴られている一方、大人が読んでも面白くて気が付くと読了していたことを思い出す。

私の父は63歳で自らの人生を強制的に終える選択をした。その後、何かの折にエンデが永眠したのが65歳と知り、父のそれと年齢が近かったというただそれだけの理由で、彼の本を手に取る機会をもち、それが今ここでこんな話につながっている。

 

お話は、とある町の日常を流れる時間とその時間を生きる人々の物語。人と人を結びつける笑顔や親密なつながりや思いやり、本来の自分らしさを持つ、決して経済的には豊かとはいえないけれど愛すべき人々が暮らす町に、不思議な魅力を持つ少女モモが現れるところから物語は始まる。モモはその魅力で町の人々と仲良くなり、多くの人の話し相手を氏ながら日々を送るようになった。

そんな折、ある頃から町に灰色の服を着て町を動き回る男たちが姿を見せるようになり、街と人々に変化が訪れる。

人々が費やす時間について、男たちは説いて回る。もっと目的に沿って、余計なことを省いて効率的に使うべきだ。笑顔とか、何気ない会話とか、満足を覚える丁寧さは不必要なことだ、と。

もしかすると自分は時間をつまらないことに費やしてしまっているのではないか、本当はひとかどの人物になる可能性があるのにそれを捨ててしまっているのではないか。そう考える人々が一人、また一人と増えていくにつれ、ゆっくりと流れる優しい、思いやりに満ち溢れた時間は徐々に消えていった。常に急ぎ、強制的であるかのように動き、享楽さえもが効率を追い求め、人の間に存在していた緩やかなつながりや絆がどんどん削られていく。

この物語は、そんな一度は喪われた時間をモモが取り戻すまでを描いている。

 

物語の中に、時間泥棒という表現はなかったと思います。この灰色の服を着た男たちは人々から、効率的とはいえない、明確な目的を持たずにその時々を楽しむことで経過する時間を、人々の了承のもとに巻き上げていかないと生存できません。そして、理由の如何を問わず、町の人々は自分たちの時間を灰色の服を着た男たちが求めたように使うことを、最終的に自ら選択しました。

なんだか、あるところで見かけるサラリーマンのようにも感じられるなあ、と思うのは私だけでしょうか。

ご存知のように、エンデの祖国ドイツはイギリスと並んで早くから資本主義が発達した国です。資本主義の根っ子に効率をうたうドグマはありませんが、少なくとも資本主義社会が発達していく過程で、結果として求められた効率化やスピード、合目的性が、ある種の人々をしてこの物語に登場する町の人々のようにしてしまったことをエンデは語っているように思えるのです。

 

人はその人の価値観・世界観の中においては、無駄なことはしないものです。

近代資本主義社会(堅苦しい言葉だけど許してね)のもとで、生存に必要な衣食住や安全安心を担保する物質をこれほど多くの人々が享受できるようになった時代というのはこれまでなかったと思います(もちろん分配や環境の問題はありますが、ここでは触れないことにします)。この社会システムの縁の下では、少なくとも前世紀までは、より良い明日があると思い込んだ人々が、多少の自分らしさと多少の純粋すぎる夢とを脇に置いて、効率的に、合目的的に、迅速に、今ある仕事を成し遂げて成果を出すこと(そして生活と未来の安定に必要なお金を稼ぐこと)を自らに課していて、時代を経るごとにその動きは加速されていきました。

当然ですが、そのような生き方をずっと続けようと思えば、相補性としての自分らしい自己とのつながり、人々とのつながり、愛着に基づいた時間の確保、そしてそれを貫く想いといったものをバランスよく兼ね備えていることが必要です。そこに想いが至らなかった人々は、ひとかどの人物(名声や地位?)になること、お金を儲けること(人より多くの富の獲得)を目指すといった人が生きていくために必ずしも必要ではないものを追い求めることによって、暗黙の強迫的な時間に追い込まれて、どんどん自分を見失っていきました。

 

私たちはできることなら自分が気持ちよく時を過ごすを求めています。これを否定する人はいないでしょう。

一方で、将来を見越して保証を求めるために、現在の大切な時間を未来に貯蓄するかのように今を削って日常を生きているところがあります。

そんな日常の中で自分自身を保ち、大切な人とつながって生きるために必要なこととして、この二つのバランスを持つことと言いました。

そして、後者が前者を蝕んでいき、二つのバランスが崩れているとき、時間泥棒が行われます。言い換えれば、時間泥棒とは、未来を夢や希望のない予定で埋めてしまって固定することだと思うのです。

もちろん最初はそんなことはなかったかもしれません。しかし日々変わっていく自分の中で大切な想いを見失っていくとき、未来も追い求める手段も形骸化し、よく言われるように手段が目的化します。

予定、と書きましたが、これは“決めごと”も含みます。そんな状態で埋め尽くされた時間の中でうまくいかないことが続けば、やがて自分がそこにいる意味を見失ってしまいます。その時には、仕事も家庭も人の関係も、そして何より自分自身とのつながりが、どうしようもない状態になっているものでしょう。

 

もう心がついていかない。

身体が拒否反応を起こしている。

これ以上、自分にとって自分らしさを感じられることが想定できない

現世にいる良さを信じられない

そうやって時間を節約して、先にある計画を達成しようとしてきた結果、逆説的にその時間までをも削ってしまっていることに気づかず、自分自身がどうしようもない状態に追い込まれてしまっている。

 

私は今の自分が父や妹の自殺を止められるか、といえば、堂々と首を縦に振る自信は正直なところありません。ただ、もし彼らがもう駄目だ、消えてしまいたい、と現世否定ともとれる言葉とともに私を求めてくれたなら、ここで述べたようなことを最大限の愛着とともに伝えることで、防ぐことはできなかっただろうかと考えることがあります。

 

そして、それは図らずも私自身にも当てはまる構図でした。

先に、人はその人の価値観・世界観の中においては無駄なことはしない、と書きました。したがって、無駄なこととは、『誰が見ても』というわけではないわけです。

私自身の凝り固まった、でもその時の自分には最高に大切な価値観の中で時間を費やしてきた末に、当たり前にあるものが消えてしまった、失われてしまったのであれば、未来へと続く時間もまた、その世界観の中では失われてしまっているということに気づくまで、いささか“時間”を要しました。おかしなもので、借金と同じように、安定を求めるために多少自分を偽って費やす間に、安定の元となる大切なものを失ってしまった後、自分の心身をも偽ってさらに同じように生きようとするとき、自分が自分の大切な未来の時間を盗み取ることになってしまう。そして、社会が、と言い訳を始めてしまえば、立派な被害者の出来上がりです。

 

ひとかどの人物も、豊かな暮らしも、それらを追い求めることは偽でも悪でもありません。しかし、それを社会の価値観に踊らされて、家族のため、未来のため、と自らを見失ってまで得ようとしているのであれば、そこには明らかに目を背けている大きな自己否定が潜んでいることは明らかです。

自分の時間を取り戻すとは、未来を取り戻すこと。すなわち自分を取り戻すこと。自分の時間を取り戻すとは、見失っていた、遠ざけていた自分ともう一度出会い、大切な自分の一部として統合すること、それを置いてほかにありません。

見失っていた多くの自己が認められるようになったその時には、今抱えることもできなくなっている巨大な闇が、ただの風景に代わっているはずです。