本当の自分ではなく闇の自分との出会いを求めよう

日々の棚卸

今の自分は嘘の自分ではありません。

 

のっけから味も素っ気もない文章ですみません。

特に、特定の状況を指示して書いたわけではありません。

ただ、どんな時の自分も、その時の自分が選択した自分だという意味では、そこに嘘など入り込む余地はないのです。

ですから、もう一度言います。

 

嘘の自分などありません。

 

今の自分に納得する自分としない自分はありますね。

嘘の自分はないけれど、納得できない自分はあって、私を含めてほとんどの人がそこに折り合いを見出そうと日々やりくりしているわけです。ですから、そんな自分を消してしまうほど責める必要もありません。ただ、暴力や障害で“人”を傷つけてしまったのなら、しっかりと償ってください。“人”の中には自分も入ります。

 

いつにも増して、きつく聞こえたかもしれません。

もしそう感じてしまったのなら、ごめんなさい。決して、逃げ場のない場所に追い込んでしまうためではなく、「今」をしっかりと受け止め、受け入れ、次に進むための指標にしてほしかったのです。

ただ、厳しく感じてしまった方には特に、自らに問いかけてほしいのです。その感じ、自分との付き合い方を変えるメッセージだと思いませんか。

 

以前、『私と私と私の関係 ~ 性癖を決め付けない』の中で、芥川賞作家の平野啓一郎さんが使用した「分人」という言葉をお借りして、私たちの中には実は多くの自分の存在があって、それを日々様々な場面で使い分けて生きている、と書きました。この考え方自体は、精神医療や臨床心理の世界では別段変わったことではありません。

そんな自分の中の、特に見たくない自分 - 取り繕う自分、迎合する自分、相手を罵る自分、うじうじする自分、苛々する自分、消えてしまいたい自分・・・ - が、自分自身を支配して、その感情を、その感覚を、強制的に実行にうつす時、そこには他の自分たち=自分群の納得はありません。

嘘の自分はありません、と書いた理由です。

逆もまたしかりで、見たくない自分によって自分を強制的に支配させてしまえるということは、楽しく愉快な自分によっても同じことができる可能性があるということです。

ただし、一部の自分が他の自分を“無視して”支配しようとする限り、必ず行き詰ります。どうしようもないほどどん底にあるように感じられても生きられるのは、どこかに何とかなると希望を持つ自分がいるからですし、天にも舞い上がるほど幸せな状況でも完全に我を忘れないように諭す自分が無意識の隅で言動を調整しているのも同じことです。そこには、様々な自分たちの絶妙な関係のバランスが働いているのです。

 

では、見たくない自分はどこから出てきたか、そのルーツはわかりますか?

彼ら・彼女らは皆、形を変えてその存在を訴えてきている、あなたの中で見失った自分、遠ざけた自分自身です。

こう考えてくると、「本当の自分と出会うこと」なる言葉、何だか微妙な表現に聞こえるようになりましたか(どこかで「本当の自分に会おう」とか書いてなかったかな(汗))。だって、どんな自分も本当の自分ということですからね。今の自分は嘘の自分、仮にこんな生き方してしまってる自分、という認識は、実は自分を貶めていることに他ならないと気づいてください。同時に、そこで生じる“不甲斐なさ”“やりきれなさ”“惨めさ”“悔しさ”といった感覚が感情を捉えて離さないのなら、しっかりとそれらを感じる自分を抱きしめてあげてください。きっと、今のあなたの価値観では残念に感じられるのでしょう。でも、あなたが抱える世界観の中で、必要なことを必要な時に必要なやり方で実践したのです。ですから、それが苦しくて仕方がないのなら“これから”その自分を変えていくのです。

 

「じゃあどうすればいいの?」

落ち込みながら、泣きながら、怒りながら、それでもこんな問いが出るようなら、あるいはこの問いに納得できるようなら、続いて読んでみてください。

 

ここを訪れる皆さまはほとんどの方が社会人だと思います。当然、年齢を重ねる中でいくつもの自分を抱えるようになっているでしょう。

裏を返せば、そんな自分群の中で世界観も日常も安定してしまっている、と思うのです。安定、は別に、良い意味で使用しているわけではありません。固定、と言い換えてもいいでしょう。単に日々のルーチンワークがどうの、という意味ではなく、もっと根源的な自分との関係という意味でとらえてください。

『固定』が自分との関係で成立してしまって、自分が全く納得できていないのだとしたら、多くの行き詰って苦しんている自分がいるのでしょう。

従って、まずやることは、自分を丸ごと受け入れることです。自分群の中の“消えたい”と感じている自分から一番遠いところにいる自分によって、彼らの味方になってあげることです。

最初は大変です。言い切ってしまって失礼かもしれませんが、自分を振り返れば「自分を受け入れる」など、アホらしくて、胡散臭くて、気持ち悪くて、出来たものではないと感じるからです。味方になる自分もまた、そんなことした経験もないし、そもそも自分群全体を支配しようとした輩に対してそんな優しい扱いなどすることに納得できないかもしれない。

でも、しかし、これは他の誰か、ではなく、自分のことなのです。

その自分自身を受け入れるのは自分以外にいないのです。父なる愛よりも母の抱擁よりも、もっと身近な自分によって実践することなのです。

残念ながら、今の私にはこの表現しかできません。

 

自分を受け入れる、を別の言葉で表現すると、闇の中で怯え、蠢いている自分と一緒にいることでしょう。

すると気づくはずです。

自分が自分を貶めていることに。

自分が自分を蔑ろにしていることに。

自分が自分を馬鹿にしていることに。

その結果、鬱となるのか、暴力に走るのか、無気力に陥るのか、怒り憎しみに絡め取られるのか、酒や薬片手にばか騒ぎを繰り返すのか、仕事や運動に逃げ込むのか、誰かを支配しようとするのか。

どう表出するかは人それぞれです。

そうなるまでには紆余曲折あって、本当につらい経験があったと思います。自分が今どんな状態か、によらず、自分との接し方は本当に変わらないものです。それが前述のようにひどい扱い方であったとしても、そうしている限り、「世界は安定(固定)している」からです。

安らかな不安の世界、安定したゴミ溜めの世界です。

ここを出ることは、本当に怖い!

どんなグズグズで不快であっても、住み慣れた世界なのですから。

だから、最初は頭で理解するだけでもいい。自分を貶めてよいことは何もない、自分だけでなく自分を見てくれている人々をも傷つけているということに。自分を大切にしている自分がどこかにいるから、今もこうやって生きているし、生き続けられている。自分を大切にしている自分は、その時々に分かる範囲でベストを尽くしてきたのです。

ですから、理解したら、勇気をかき集めて次のステップに進みましょう。

自分が選択して、今の自分をやっている、でも、きつい、苦しい、哀しい、から、あるいは、他にしたいことがある、使命がある、やるべきことがある、など何でもいいから怖いけど、今の生活を変えます、と言って、変化していくのです。

その時に、変化の先や途中には「気持ちのよさ」を求めてみてください。

刹那的な何か、ではなく、落ち着いて、じんわりと感動出来て、うきうきして、といったその時の自分にとっての「気持ちのよさ」です。遊びまくったり、快楽にふけったり、寝てばかり、という選択を否定はしませんが、おそらく飽きます。それに、罪悪感たっぷりでそんなことやっても楽しめないと思います。

だから、もう少し長いスパンで、もう少しトータルな自分群で相談して、いろんなことにトライしてみてください。

 

繰り返しますが、見失った闇の自分を見つけて、一緒にいてあげてください。そして、たとえどんな心持になったとしても徹底して味方になっていてください。対外的には謝ったり、取り繕ったりする必要も出てくるかもしれません。でも、そんなこととは別に、ひたすら彼・彼女に、OKを出してあげてください。よくここまで生きていてくれた、と。よく消えずに一緒にいてくれた、と。これができるようになると、文字通り世界が変わり始めます。

見失った、と言っているのは、失っていないということでもあります。

確実にそこにいるからこそ、今は苦しい、でも忘れてはいけない何かを包含している、だからその苦しさとともに気持ちのよい明日を見つける旅に出るのです。きっとあなたにとっての光がそこに見えるはずです。

 

いつかも書いたことだけど、闇を大切に。光を追い求めるためには、闇を切り離してはいけない。