幸せ、幸福感。
胸が躍り、ときめくほどのあからさまな感覚は、なかなか望んで得られるものではないかもしれません。それでも、日々過ごす日常にちょっとした気持ちの良さを集めて、多少なりとも自分の人生を良い方向へ持っていけるというささやかな自信はほしいですよね。
それでも、現実はなかなか思い通りにはいかないものです。
よく言われる、今の自分を幸せと思ってみる、幸せを意識して身の回りを見直してみる、それは一理あることだと私も思います。
しかし、そうやって見出した幸せっぽい何かは、次の瞬間には、体の内側に蓄積された嫌な思いの黒雲に吸い込まれて溶かされてしまう、そんな気がする方も多いのではないでしょうか。
幸せを感じたい。
幸せと感じる機会を増やしたい。
幸せを感じて生きていける力がほしい。
じゃあ、幸せの数を増やしましょう。
そう言うと、それができればとっくにやっている、できないから困ってるんだ!
そういう声が聞こえてきます。
おっしゃることはごもっとも。
そうしろ、と言われたところで、やり方もわからずできるのであれば、誰も困りはしない。
その通りですよね。
ならば、幸せの数を増やすコツみたいなものを、語ってみようと思います。
幸せなんて抽象的な言葉じゃなくて具体的な何かを思い描こう、などと言うつもりはありません。あなたにとって、人とは違うけれども実は落ち着くこと、ほっとすること、安心すること、胸が熱くなること、勇気づけられるような懐かしさに包まれること、朗らかな気持ちになること、もちろん、うきうきでも、ワクワクでも、ドキドキでも、拳を高く突き上げる達成感のような何かであっても構いません。時間も空間も超えて、想像の世界に飛ぶことだって立派な幸福感足りえるものです。まあ、これはやり方がおかしいと変な方向に行ってしまうかもしれませんが、そのあたりのことはまた別の機会にしましょう。
さて、そうは言いながら、最初にお話しすることはこの流れの正反対の内容です。どうか、ちょっとだけ我慢してください。
随分昔のことですが、こんな歌というか文章を詠んだことがあります。
我こそは、あ~我こそは、正義の被害者なりぃ~
我に盾突きせしものぉ~、許すまじぃ~
歌舞伎のノリです。各文の後に、ポンという鼓の音が、ヨーという掛け声とともに聞こえてくるようなイメージです。
きっと一部の方にとっては、辛辣に感じる文章だと思います。
この文章に反応する方、どうかあなたを貶める意味で使っているわけではないこと、ご理解ください。
今、こんな世界に浸っているとするなら、一生その正義の恨みの檻に閉じ込められたままだよ、という意味です。訴えている相手が他者なのか、自分自身なのかは人それぞれでしょう。いつも言うように、こう歌いたくなるほど哀しい時間を経験してこられたのだと思います。
この文章の意義は、それを踏まえてなお、最初に伝えたいことなのです。
私がこれを詠んだ相手は、母親でした。
最初は、母親に対する愛憎の気持ちがないまぜになっていました。父との関係がおかしくなる頃から続く、常に自分は不幸で、あの時は誰彼が悪かった、あの頃はよかったのに今は・・・と、ずっとそんなことを言葉と態度で示していました。家にいるときはできるだけ話を聞くようにしていましたが、それで彼女の何が変わるわけでもありません。
誰の中にもある感性かもしれませんが、それが行き着くところまでいって、体を蝕む癌となり、依存症としてあらわれ、果ては誰も寄り付かなくなるような荒れた時期を過ごしていました。
そんな母親に飲み込まれないように、しかし一方でとても大切な存在が何とか少しでも良い余生を送ることができるように、当時なけなしの包容力と微力な心理の知識をかき集めたら、こんな表現になったわけです。
再会から何度目かのときにいつもの恨み節が出だした母の言葉を受け止めながら、この言葉を目の前に置くようにして口ずさむと、母はしばらくきょとんとした表情をした後、考え込んでしまいました。その後、私が何かやったというのではなく、二人の間の垣根が取れていったように思えます。
やっぱり残酷だったかな、と今でも思う時があります。彼女なりに、貧しかった人生を与えられた世界観の中で精一杯生きて、二人の子供を大人に育て上げた、本当はそれだけでも大したことなんですから。
ただ、世間で忘れられていることの一つに、子が思う親の幸せというのがあります。
言葉にしてしまえば当たり前に聞こえるかもしれません。
しかし、親が子供の幸せを思ってあれこれ尽くした結果、子供がおかしくなっている時があって、その時には親の方もおかしくなっていたりするものです。その時に起こっていること、それは、子供が親を鏡に一生懸命に生きているうちに、最も大切な人がおかしくなっていってしまう、しかもそれは自分がどんなに頑張っても変えられないし、相手も変えようとしているようには見えない、そうやって壊れていく親を見続けるうちに子供のおかしさは単なる社会的な通年における出来不出来の問題から、危険な、あるいは世の中から受け入れられづらい方向へ行ってしまっている、ということなのです。
それが、引きこもりとなるか、愛憎劇となるか、疎遠となるか、鬱となるか、依存症となるか、愛着障害となるか、何となるかはわかりませんが、根っこは同じだったりします。
幸せの話なのに、いきなりこの話を出したのは、私たちが陥りがちな、幸せか幸せでないか、というゼロイチ思考をここに持ち込まないようにしてほしいからです。
ともすれば被害者になりがちなのは、自分が勝手にやっていること、多大な損をしていることに気づいて自ら変わろうとするまでは、なかなか改まらないものです。つまり、最初はこの場所に居ながらにして、自分なりの幸せを求めていく必要があるということです。
つまり、この状態と同時に、私たちは幸せを感じることもできるのです。
最初は、とてもちっぽけなものだったりするかもしれません。よくあるのは、確かに幸せかもな、と思いつつ心の奥にわだかまりや哀しみや憎しみが色濃く見え隠れして、幸せの感覚がのっとられてしまうことです。繰り返しますが、最初はうまくいかなくても仕方がありません。
これまでのブログで何度か、自分群という言葉を使用しました。私たちの中には複数の自分がいて、それぞれがそれぞれの都合によって主体になったり脇に寄ったりしながら、場面ごとに自分を使い分けているということです。哀しい出来事や不幸の体験を人生からなくすことは難しいですが、ずっとそのような状態が続いている人は、恒常的にある種の自分が自身を支配し続けていて、これまで生きてきた中で培った他の大勢の自分たちは委縮してしまっている状態だと思うのです。
これからすべきこと、それは不幸、被害者の自分をのけ者にすることなく、委縮してしまっているその他大勢の自分の感覚をもっともっと取り上げていくことなのです。
その他大勢の自分の感覚。
そこには、今目の前にあるささやかな幸せを感じることから、振り返った時間に存在する素敵な思い出を蘇らせること、未来の喜びの予感を察知できること、打ちひしがれた自分にしっかりと寄り添うこと、失敗を反省しつつも自分を蔑まないこと、人の波にもまれながらも自分の写し鏡としての取り巻きに理解を示すこと、嫌いな感覚だけでなく好きの感覚をきちんと感じること、体の欲求を適切に感じ取り実践していくこと・・・。
これらは全て、自尊の感覚です。・・・まあ、ここに挙げたようなことを最初から全て実行することは難しいですけどね。ですが、一つずつでも行っていくことです。
自尊心は私たちの場合、ただそこにあるものではなく、すること(考えたり洞察したり気持ちの整理をしたりすることも含みます)の中に間違いなく形成されていきます。恢復の初めから自尊心が満ちている人はそんな必要もないでしょうが、最初からは“ない”からこそ、この拙文に目を通していただいていると思います。
言ってることは決して難しいことではないと思います。なんだ、馬鹿らしいと思わない限り、徐々にではあっても継続すれば確実に身に着けていくことができます。
それでも、
・馬鹿らしい
・無理だ
・出来っこない
そう感じられて仕方がない方のために言います。
幸せを自分の中に増やしていくということは、当たり前ではない世界を当たり前である世界にするために、日々試行錯誤して求めていく必要がある、ということです。誰かに幸せにしてもらうのではありません。
あなたがあなたを幸せにするしかないのです。
その本質をしっかりと踏まえた時、やれることはおのずと決まってきます。
いかがでしょう。
なんか思ったより重そうだ、面倒くさそうだ、無理かな、そう思われましたか?
だとしたら、そんな心配は必要ないと思います。
幸せという言葉、それを増やすこと。
そんな題名に惹かれて、この文章をここまで読まれたのであれば、もうあなた自身の幸せの実現に向けて一歩と言わず踏み出していますよ。
だってそうでしょう。
余程変わった人でもない限り、自分がそうなることを欲していることを自覚しているんだから。
もう一度言います。
幸せに生きている人々にとっては当たり前である世界が当たり前に感じられない。
それを変えていこうとしています。
そのために必要なことは、自分が幸せな自分であること、これにつきます。
これは誰もが持っている能力で、誰もが試みられることです。
ただし、人によっては即座に想像する「めくるめく快感の世界」などではなく、日々、自分に対する働きかけの繰り返しの中に、徐々に『体現』されていくものなのです。
そして、体現するのは、私のような心を扱うカウンセラーでもなければ、親や上司でもない、恋人でもなければ教祖様でもない、他ならぬあなたなのです。
できます。
あきらめないで。
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